Sopronとは? わかりやすく解説

ショプロン【Sopron】

読み方:しょぷろん

ハンガリー北西部の町。ドイツ語エーデンブルクオーストリアとの国境近く位置する古代ローマ時代よりスクラバンティアとよばれ、交通の要衝として栄えたオスマン帝国攻撃されなかったため、他のオスマン帝国領から移住者集まり発展17世紀大火見舞われたが、のちにバロック様式再建され建造物数多く残っている。ケークフランコシュという赤ワイン産地として有名。作曲家フランツ=リスト生地


ショプロン

(Sopron から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/17 21:51 UTC 版)

ショプロン
Sopron
市旗 市章
位置

ショプロンの位置
位置
ショプロンの位置
ショプロン (ジェール・モション・ショプロン県)
座標 : 北緯47度41分 東経16度36分 / 北緯47.683度 東経16.600度 / 47.683; 16.600
行政
 ハンガリー
  ジェール・モション・ショプロン県
 市 ショプロン
地理
面積  
  市域 169.06 km2
人口
人口 (2022年現在)
  市域 61,233人
    人口密度   362人/km2
  備考 [1]
その他
等時帯 中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間 中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
公式ウェブサイト : http://www.sopron.hu/
火の見塔

ショプロンハンガリー語: Sopron, ドイツ語: Ödenburg, ラテン語: Scarbantia)は、ハンガリージェール・モション・ショプロン県にある町。ハンガリーの北西端に位置し、オーストリアブルゲンラント州に接している。ドイツ語名はエーデンブルクハンガリー王国時代はショプロン県の県都。町の東に中欧で2番目に大きいステップ湖[2]であるノイジードル湖が位置する。

歴史

古代・中世

ローマ帝国時代にはすでに町が存在しており、スカルバンティア Scarbantia という名称であった。ローマ帝国時代の広場は、現在の市中心部の広場へと継承されている。民族移動時代には一時、廃墟となったと考えられている。ハンガリー領となり、9世紀から11世紀にかけてローマ帝国時代の城壁を修復し、シュプルン(Suprun)の名称であった。

1273年にボヘミア王・オタカル2世が町を支配し町の子供たちを人質として連行していったが、ハンガリーのラースロー4世が到着したとき、町はハンガリーに忠誠を誓いハンガリー軍を受け入れた。

16世紀にハンガリーの大部分はオスマン帝国領となったが、町はオスマン帝国領とはならなかった。そのため、オスマン帝国領から移住してきた人々により町は拡大した。1676年に町は大火に見舞われたが、その後復興に際してはバロック様式建造物が多く建造された。

近世以降

近世ではオーストリア=ハンガリー帝国ハンガリー王国領であったが、第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約およびトリアノン条約により、町の帰属は住民投票で決められることとなった。1921年12月14日に行われた住民投票において65%がハンガリーに投票した。これによりハンガリー領となり投票日の12月14日は町の記念日となった。なお、この住民投票の対象となった地域は、ショプロン周辺を除いて新生オーストリア共和国への帰属を選択したため、同地域はハンガリーから飛び抜けてオーストリアに食い込むような形となった。

第二次世界大戦中は収容所が町に設置されている。1945年4月1日にはソ連赤軍の侵攻を受けた。冷戦中は東西陣営の境界の町であった。1989年には冷戦終結の一つのきっかけとなる汎ヨーロッパ・ピクニックがこの町で起きた。200名以上の東ドイツ市民がここより西側へ亡命した。

現在のショプロンはワインの生産地として栄えている。古い町並みが残ることから多くの観光客も受け入れている。また、16世紀以来のユダヤ人コミュニティがあったために、旧市街には古いシナゴーグなどが残されている。

ピクニック大会

1989年8月、旧東ドイツ国民が『ピクニック』と称して隣国のオーストリアに大量越境した。当時東ドイツから同じ東側陣営のハンガリーへの旅行は許されていた。旧西ドイツ国民は、チェコスロバキアを経由してハンガリーとオーストリアとの国境であるショプロンに東ドイツ市民を集めて、中立国オーストリア経由で西ドイツへ脱出させた。一部人々は切断した鉄条網を持って越境した。

ピクニックを装った亡命に手を焼いた東ドイツは、市民たちの不満を和らげるため、その後西ドイツへの旅行を認めることになった。11月9日、東ドイツ当局の記者会見で、西側への旅行は認めるが許可が必要と発表。それを西ドイツのテレビ局が東側が国境を開放したと伝え、その情報が一気に流された。東ベルリン市民は西側のテレビを見ていたからである。そして騒ぎが始まった。

テレビを見て真に受けた東ベルリン市民が、東西ベルリンの検問所に続々と集結し始めた。警備兵は何も知らされていないので止めようが無く、群衆事故を防ぐ為なし崩し的にゲートを解放した。これを受けて東ベルリン市民は西ベルリンになだれ込み、ベルリンの壁崩壊した。東西冷戦終結上、特記される都市である。

  • バルフ Balf/Wolfs (998人) - 南東端。フェルテー湖を抱え、隣町のフェルテーラーコシュから入れるハーバーがある
    • バルフフュルデー Balffürdő/Wolfsbad
  • ブレンベルクバーニャ Brennbergbánya/Brennberg (604人) - 西部の鉱山
  • エルデイイシュコラ Erdeiiskola (141人) - 西隣
  • ゲルベハロム Görbehalom/Bodenriegel (204人) - 西部
  • オーヘルメシュ Óhermes (26人) - 西端
    • オーヘルメシュアクナ Óhermesakna
    • ウーイヘルメシュ Újhermes
  • ショプロンケーヒダ Sopronkőhida/Stein am Brückl (1312人) - 北端
  • トーマロム Tómalom/Teichmühle (467人) - 北部
  • ウーイヘルメシュ Újhermes (118人)

建築物

  • 西ハンガリー大学

有名な出身者、ゆかりの人物

姉妹都市

脚注

外部リンク




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