NPKCと「五月流血事件」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/06 09:03 UTC 版)
「タイの歴史 (1973年 - )」の記事における「NPKCと「五月流血事件」」の解説
チャートチャーイは政府の取り決めで軍の一つの派閥が豊かになることを許したため、スントーン・コンソムポン、スチンダー・クラープラユーンなどチュラチョームクラオ陸軍士官学校第五期生の司令官によって率いられたライバル派閥は、チャートチャーイ政権の腐敗と「ビュッフェ内閣」の変革を掲げてクーデターを引き起こした。1991年2月23日、チャートチャーイとアーチットはドンムアン空港で拘束され、国家平和維持評議会 (NPKC) が軍と警察を掌握した。NPKCは、国王や国際世論への体面から民間人のアナン・パンヤーラチュン首相を就任させた。アナンは反汚職と率直さで人気を博した。次の総選挙は1992年3月に行われた。 選挙の結果として、クーデターの首謀者スチンダーを首相とする連立政権が成立した。首相には就任しないと公言していた約束を破ったことは、新政権が軍事政権への偽装に向かっていると広まっていた疑いに確信をもたらした。しかしながら、1992年のタイはもはや1932年のシャムではなかった。スチンダーの動きに対し、バンコク元知事のチャムロン・シームアン少将率いる何十万人もの人々はバンコク史上最大のデモンストレーションを行った。5月18日、スチンダーは個人的に忠誠を誓う部隊を都市に送り、強引にデモンストレーションを抑圧しようとしたため、バンコクの中心は虐殺と暴動が引き起こされ、数百人が死亡した。内戦への恐怖の中プミポン国王が介入し、5月20日にテレビの聴衆の前にスチンダーとチャムロンを呼び出し、平和的解決に従うよう促した。この会合によりスチンダーは辞職した。(暗黒の5月事件)
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