暗黒の5月事件
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暗黒の5月事件(あんこくの5がつじけん、タイ語: พฤษภาทมิฬ)は、1992年にタイ王国で発生した事件である。
概要
1991年、タイ王国陸軍がタイ軍事クーデターを起こし、スチンダー・クラープラユーンを実質的な指導者とする国家平和維持評議会が権力を掌握した。
評議会は外交官であるアナン・パンヤーラチュンを首相に任命した。翌1992年におこなわれた総選挙の結果、下院はスチンダーを首相に指名した。
スチンダーは首相に就任したが、民主化を望んでいた国民は反発し、バンコクを中心に抗議デモを行った。
軍部はデモ隊を銃の発砲で鎮圧し、300名以上の死者が出た。国王ラーマ9世は武力衝突を憂慮し、スチンダーと民主化運動の指導者チャムロン・シームアンを王宮に呼び事態の沈静化を指示した[1]。
これを受けてスチンダーは首相を辞任し、アナンが首相に復帰し文民政権の樹立につながった。
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チャムロン
関連項目
脚注
- ^ “タイの政治混乱—その歴史的位置—”. アジア経済研究所地域研究センター 重冨 真一. (2010年5月1日) 2017年3月15日閲覧。
暗黒の5月事件
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アナン政権によりクーデター後も経済は順調に推移したが、1992年4月7日、首相に就任しないと明言していたスチンダー・クラープラユーン(在任1992年4-5月)が首相に就き、新政権の成立したことに国民は反発し、4月下旬には辞任を要求する大規模運動に発展した。その後、5月17日の抗議デモにおいて40万人余りにのぼる群集に対し、ラーチャダムヌーン通りで衝突した軍・警察が、5月18日から19日にかけて発砲し、3日間で死者53人・負傷者759人におよぶ暗黒の5月事件(5月流血事件)が発生した。これによりスチンダーは首相を辞任して、アナンが暫定政権の首相に復帰し、文民政権の樹立につながった。 1992年9月の総選挙において、旧野党の民主党が躍進し、チュワン・リークパイ(在任1992-1995年〈後1997-2001年〉)内閣となると、チュワンは王制を堅持する民主主義を唱えた。1995年7月、国民党のバンハーン・シラパアーチャー(在任1995-1996年)が首相に就いた後、1996年11月には新希望党のチャワリット・ヨンチャイユット(在任1996-1997年)が首相となり、1997年7月からの通貨危機のなか、同年9月に新憲法が可決され翌10月に公布された後、経済危機により11月に辞職したチャワリットに代わり、民主党のチュワンが再び就任した。
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