K-19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/12/21 04:57 UTC 版)
K-19
- K-19 (原子力潜水艦)(カー19) - ソ連の658型潜水艦。
- K-19 (映画) - 上記の原子力潜水艦が1961年に起こした事故を映画化した2002年の映画。
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K-19
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/16 09:22 UTC 版)
詳細は「K-19 (原子力潜水艦)」を参照 1961年7月4日、K-19はグリーンランド南方沖を航海中、右舷原子炉の接近が困難な区画で冷却水漏れが発生し、冷却系が急減圧した。冷却水の喪失によって原子炉が過熱し始め、制御棒を危険にさらした。ザテエフは、これが核爆発につながると誤解していた。彼は、この爆発が近くのNATO軍基地に損傷を与え、ソ連とアメリカの間で核戦争を引き起こす可能性があると考えた。 このことについて、ミハイル・ゴルバチョフは後に”K-19で爆発が起これば、それは軍事的な挑発か、北アメリカ沿岸に核攻撃を企てていると取られる可能性があった。アメリカとNATOの即時反撃が第三次世界大戦のきっかけとなる可能性があった。”と述べている。 7月4日以降、原子炉に入ったクルー8人が日を追うごとに亡くなったが、応急修理を施した冷却システムによって大惨事になることは避けられた。K-19は事故後母港まで曳航され、原子炉の交換が2年間にわたって行われた。事故後、ザテエフとクルーは事故について他言しないよう命じられ、事故の件はK-19の交代クルーにも、死亡したクルーの家族にも知らされることはなかった。 ミハイル・ゴルバチョフがノルウェー・ノーベル委員会宛に書いた2006年2月1日付けのノーベル平和賞推薦状を取り上げたインテルファクス通信によると、1990年までこの事故は秘匿されており、放射線被曝の犠牲となったクルーの遺体は鉛製の棺桶で埋葬されたという。また、この時点での存命者は139人中56人であった。 事故後のザテエフは海軍で陸上勤務を続けた。1962年から1965年にかけて、レニングラードの海軍士官学校で学び、その後レニングラード海軍基地の部門長、続いてモスクワの海軍本部勤務となった。1972年、造船所からの新造艦の承認を担当する海軍試験部門の長となった。1986年に退役し、1990年以降は積極的にソビエト海軍の退役軍人の活動に関与していた。1998年、K-19事故時の副長アルヒーポフの死から9日後の8月28日、長い闘病生活の末、肺がんで亡くなる。遺体はモスクワのクズミンスコエ墓地(ロシア語版)で、K-19の事故で亡くなった、5人の仲間の近くに埋葬された。
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