葛玄とは? わかりやすく解説

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葛玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/24 03:50 UTC 版)

葛玄像

葛 玄(かつ げん、164年 - 244年)は、中国後漢末期から三国時代道士孝先本貫徐州琅邪郡葛仙公または太極左仙公とも呼ばれる。祖父は葛矩。従祖父は葛弥。父は葛焉。従兄弟は葛奚。従孫(葛奚の孫)は葛洪

生涯

葛玄は幼少の頃からよく学び、五経を広く読み漁り、老荘思想の学説を喜んだという。

葛玄は丹陽郡句容県に住んでいたが、後に方士左慈に出会い弟子入りし、『太清丹経』・『黄帝九鼎神丹経』・『金液丹経』・『三元真一妙経』などの道経を授かったが、これらが後に葛玄の弟子の鄭隠を経て、葛洪に伝えられたという。

葛玄は海山にて薬草を採る生活をしていたが、嘉禾2年(233年)、閣皁山中国語版に住んで庵を建て修道を行い、築いて炉を立てて、九回に渡って金丹を作成したが失敗した。後に括蒼山中国語版南岳羅浮山中国語版などの諸山を遨遊するのを楽しんだ。

著書は『霊宝経誥中国語版』を編撰しているといわれ、精研した上清・霊宝などの道教の真の経典を研究し、弟子たちに世界を継承するように指示している。

東晋後期の伝説では、太極真人徐来勒が『霊宝経誥』を葛玄に授け、葛玄はそれを鄭隠に伝え、鄭隠は葛洪にそれを伝え、葛洪は更に族孫の葛巣甫中国語版に伝えたおかげで『霊宝経誥』が後世に伝わることとなり、葛玄は『霊宝経誥』の誕生と伝授に関わる主要人物の一人とされた。

北宋崇寧3年(1104年)、徽宗により葛玄は沖應真人に封じられた。のちに南宋理宗により沖應孚佑真君に格上げされた。

道教霊宝派中国語版から派生した閣皁宗中国語版において、葛玄は祖師とされた。少数の道教の宗派の中では、葛玄は四大天師[1]の一人とされている。

逸話

道術の書の中には、葛玄が辟穀を行う事ができ、符簶を用いて人々の病気を駆り立て、あらゆる種類の奇法を行うという伝説を記している。

『神仙伝』

  • 葛玄はあるとき船で旅をした。道具類の容器の中には護符数十枚が納められてあった。そこで、客の一人がこの符の効験について質問し、「どんな働きをするものか、ひとつ拝見できないものでしょうか」というと、葛玄は「符が何の働きもするものか」と、すぐ一通の護符を取って河に投げこむと、符は下流の方へ流れてゆく。「どうじゃ」と葛玄がいうと、その客は、「拙者が投げこんでも同様でござろう」といった。葛玄がまた符一通を取って河に投げると、今度は逆流しだした。「どうじゃね」といえば、客は「奇妙なことで……」という。また一通の符を取って投げると、停止したまま動かない。ややあって、下流の符は上流へ、上流の符は下流へと動いて、三枚の符が一カ処に寄り集まったので、葛玄はそれを取りあげた。河岸には洗濯をする一人の女がいた。葛玄が若者たちに、「わしは諸君のためにあの女を逃げ出させてみせるが、どうじゃ」というと、「それはおもしろい」というので、符一枚を水中に投げこむと、その女は驚いて逃げ出し、十数丁も逃げてまだ止まらない。葛玄が、「止めてみせよう」といって、再び符一枚を水中に投ずると、女はすぐ止まって引き返してきた。何を怖がって逃げ出したと女に訊いてみると、「わたし自身にもさっぱりわかりません」と答えた。
  • 葛玄を招待した人があった。あまり行きたくはなかったが、その主人が是非にというので、やむなく使者についていった。数百歩も歩くと、葛玄は腹痛を起こし、立ち止まって地面に横になったかと思うと、まもなく死んでしまった。頭を持ち上げると頭がきれて落ち、四肢を持ち上げると四肢がばらばらになった。おまけに腐爛して蛆がわき、近寄ることもできない。呼びにきた使者が慌てて葛玄の家に報らせにゆくと、もう一人の葛玄が堂上にいるのが見えた。使者は何もいうことができず、先刻の屍体のところへ引き返してみると、葛玄の屍体はすでに消えていた。人と路を同行するのに、地上三・四尺のところを並んで歩かせることもできた。

『捜神記』

  • 葛玄はあるとき客人と食事をしていると、変化の術についての話になった。客が「先生、食事が終わりましたら、どうか一つ術を見せてもらえませんか」と言うと、葛玄は「君、食事の後と言わず今ここでみたくないか?」と応えた。口の中に含んだ飯粒を吹き出したが、一粒のこらずに数百匹の大きな蜂に変わった。蜂は一斉に客の身体に群がったが、刺されはしなかった。しばらくして葛玄が大きく口を開けると、蜂がみなその中に飛び込んだ。葛玄がそれを咀嚼したが、変化する前の飯粒のままだった。
  • またカエルや昆虫、ツバメやスズメなどの小鳥を指差し、踊らせた。音楽の節にあわせる様子は人間のようだった。
  • また客のために酒の席を設けた時、運ぶ人がいないと酒杯が勝手にやってくる。杯は客の前で止まり、飲み干さない人の前から離れなかった。
  • あるとき、呉の皇帝の孫権が楼の上から見ると、雨乞いの土人形を作っていた。帝が「人民は雨を願っているが、叶うだろうか?」と声をかけると、葛玄は「雨でしたら容易く降らせることができます」と答えると呪符を書きつけて、社の中に貼り付けた。間もなくして空も地も暗くなり、滝のような大雨が降り出し、水が溢れた。帝が「水の中に魚はいるか?」と尋ねると、また札に呪文を書きつけて水中に放った。しばらくすると、数百匹の大魚が現れたので、それを捕まえさせた。

『抱朴子』

  • 葛玄はいつも酒を飲んで酔っ払うと、いつも他人の家の門の前にある池の中で寝てしまい、日暮れ頃になってやっと出てくるのであった。
  • 葛玄はある時孫権に暇乞いをして洌洲に行ったが、その帰途に暴風に遭い、葛玄の乗った船も沈んでしまった。孫権は酷く悲しんで、翌日、葛玄の乗った船を探させると、だいぶ時間が経った頃、葛玄は水の上を歩いて帰ってきて「川底で伍子胥に急に招かれ、先程まで酒を飲んでいました」と謝った。
  • ある日、葛玄は「8月13日に私は死ぬ」と明言した。その日になると衣服を整えて横になり息絶えたが、顔色は生前と変わりなかった。弟子が葬儀をしていると3日後、夜半に突風が吹き、雷鳴とともに灯りがふっと消えた。風がやみ灯りをともすと葛玄の姿はなく、服だけが帯も解かれず着ていたままの形で寝台に残されていた。葛玄は帰って来ず、翌朝に隣家のものに尋ねても「突風も雷もなかった」と答えたという。

その他

  • 葛玄の常宿の亭主が病に苦しみ、精霊に祈っていた。だが精霊の態度が横暴だったため、葛玄は鬼神を呼び出しこらしめさせた。
  • 通りかかったものは下馬しなければならない廟があった。葛玄が馬を降りずに通りすぎようとすると、廟にまつられた神は怒り大風を起こした。だが葛玄が「何をするか」と一喝するととたんに風はやんだ。葛玄の怒りは収まらず、護符を廟の中に投げ入れた。すると付近の木にとまっていた鳥が一斉に死んだ。さらに数日後、木は全て枯れ果て、廟はひとりでに燃え出して焼失した。
  • 魚屋に行った葛玄は「この魚を川の神のもとへ使いに行かせたい」と願い出た。魚屋が「死んだ魚には無理でしょう」と言うと、葛玄は護符を魚に飲ませ、川に投げ入れた。すると魚が息を吹き返し、護符を吐き出すと空に飛び去っていった。
  • 冬の日のこと、葛玄は来客が寒がっていたため、口から火を吐いて部屋中を燃やした。だが火は暖かいだけで燃え広がらず、火傷することもなかった。また別の客が来ると葛玄は分身して応対したという。
  • ある道士が不老長寿で数百歳にもなると自称していた。葛玄は天人を呼び寄せると「お前は本当は何歳だ」と下問させた。恐れいった道士は「73歳です」と白状し、それ以来姿を消してしまった。

参考文献

脚注

  1. ^ 張道陵葛玄・薩守堅・許遜



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