正史三国志の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 14:17 UTC 版)
この時代に置いては、どこかの太守が空席になると、自分の息のかかった者を派遣して版図を広げるのが当たり前であった。袁術が諸葛玄を新任の豫章太守として派遣したが、朝廷は太守に朱皓を派遣し諸葛玄と交代させようとした。諸葛玄が劉表を頼って荊州に逃れたため、朱皓は無事に太守の地位に就いた。しかし最後は笮融に殺されてしまった。その後、交州刺史であった兄は、劉彦を派遣して笮融を弟の仇討ちとして殺そうとしたが、荊州内部が劉彦を疑って通してくれなかった。そのため今度は牟氏を説得して派遣しようとしたが、その頃ちょうど牟氏の母が死んだので、実現しなかったという。
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