FDJとSED
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1953年に、東ドイツの支配政党ドイツ社会主義統一党(SED)の青年団組織である自由ドイツ青年団 (FDJ) に加入、1955年にドイツ社会主義統一党に入党。機械工の修業をしていたが辞めて学業に転じ、1957年に国家教員免許を取得して卒業。卒業と同時に兵役に従事し、1958年には兵士代表として第5回党大会に参加している。 兵役終了後、リューゲン地区のFDJ第一書記、次いで1960年からロストック地区のFDJ第一書記を歴任。1961年にFDJ中央委員会書記に就任し、大学など高等教育機関での党活動の責任者になった。1964年から1967年までモスクワにあるソビエト共産党の党中央委員会学校に留学し、社会学学士号を取得。次いでFDJ中央委員会宣伝担当書記に就任し学校における党の宣伝活動に従事(‐1974年)。同時期ピオネール団「エルンスト・テールマン」の代表を兼任。1971年、人民議会議員に選出、議会委員に就任。 1973年、SED党中央委員に選出。1974年にはFDJ中央委員会第一書記となり東ドイツ唯一の公的青年団組織を指導する立場になった。1981年には国家評議会委員に選出され、さらに1983年には党中央委員会政治局員に選出。1984年には国家評議会副議長に選出され、議長であるエーリッヒ・ホーネッカーに次ぐ地位に昇りつめた。そもそもFDJはホーネッカーが設立した組織であり、その生え抜きであるクレンツは「ホーネッカーの秘蔵っ子」と言えた。
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