Appleでの開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:49 UTC 版)
「スティーブ・ウォズニアック」の記事における「Appleでの開発」の解説
これと前後してウォズニアックは、Appleに注力するためにヒューレット・パッカードを退社。Apple Iの再設計を開始した。処理能力の向上と外部ディスプレイへのカラー表示、機能拡張スロット、内蔵キーボード、データ記録用カセットレコーダをもつApple IIをロッド・ホールトが開発した電源 以外を、Integer BASICやフロッピードライブのコントローラIntegrated Woz Machineも含めてほとんど独力で開発。1977年6月に発表した。価格は1,298ドル。Apple IIは爆発的に売れ、1984年には設置ベースで200万台を超え、莫大な利益をAppleにもたらした。 1980年にAppleはIPO(株式公開)を果たし、ウォズニアックには1億ドルを超える創業者利益が転がり込んだ。(創業時のビートル/電卓売却額を株式比率とすると、ジョブスはその6倍、ビートル+ブレイクアウト報酬/電卓+ブレイクアウト報酬とすると10.25倍であるが、実際にはウォズ二アック45%、ジョブス45%、ウェイン10%の株式保有、ウェインが10%の株式を800ドルで誰に売ったかは不明) 1981年2月、サンタクルーズスカイパークでウォズニアック自身が操縦していた軽飛行機が墜落。一命は取り留めたが、事故当時を含め5週間記憶を失った。 1982年にウォズニアックはウッドストック・フェスティバルの再来を夢見て、第1回USフェスティバルのイベントを開催した。正規の入場料を払った参加者は少なく、さらに340人の逮捕者を出して終わった。しかし、ウォズニアックは1983年にも第2回USフェスティバルを開催する。 1985年2月6日、AppleがApple IIを正しく扱っていないことを理由に退社[要出典]。再びカリフォルニア大学バークレー校にロッキー・ラクーン・クラークという名前で入学し、1986年6月に電子工学の学位を取得した。(なお自伝iWozによると、公式にはまだApple社員であるらしい。商品を社員割で購入しており、Apple Storeで「社員番号は?」「1番だよ」というやり取りをしているとのこと。また、同自伝によると退社理由はリモコン製作会社設立の為と語っている) 1985年2月、ロナルド・レーガン大統領から米国科学技術メダルを、ジョブズと共に授与される。
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