ADドクトリンの創案と論争とは? わかりやすく解説

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ADドクトリンの創案と論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 15:13 UTC 版)

エアランド・バトル」の記事における「ADドクトリンの創案と論争」の解説

ベトナム戦争中、陸軍関心は、捉えどころのない敵に対す対反乱作戦COIN)に注がれていたが、ベトナムからの撤退とともに、再びヨーロッパ主戦場にした想定でのドクトリン検討着手した撤退同年1973年7月には、陸軍全体教義訓練基準定めるための訓練教義コマンド(TRADOC)が創設されており、同年10月第四次中東戦争が早速研究対象となった。 これらの研究踏まえて、まずFM100-5の1976年版導入されたのがアクティブ・ディフェンスActive Defense, ADドクトリンであった。これはソ連を含むワルシャワ条約機構WPO)軍の攻撃初動対す打撃第一会戦)を最終決戦見做すほどに重視し前方部隊を減殺するとともに後続部隊をも打撃して、速やかに防勢から攻勢転移して主導権奪回することを狙っていた。特に、第一防御線の一帯だけで戦うことを重視し幾重にも渡って防御線を構築して縦深防御をほとんど放棄している点と、部隊予備隊として温存するより第一線配置して火力発揮させることを優先するという点は、従来ドクトリン大きく異なる点であった1976年版FM100-5は、発表直後から陸軍内外から高い評価厳しい批判同時に受け、これらの批判真摯に対応するTRADOC司令官デピュイ大将英語版)の姿勢もあって、戦い方について陸軍史上で最も活発に議論されドクトリンとなった。 まず問題となったのが、敵に先制許した場合主導権奪回できるか、また敵の電子戦に対して攻勢転移まで指揮統制システムが耐えられるかといった点であった。すなわち、第一会戦勝利して第二会戦不可避であり、そしてソ連軍ドクトリン第一会戦よりむしろ第二第三会戦勝利することを重視していることから、もし第一会戦勝利しても、第二隊の突進許して最終的に包囲殲滅されるか、あるいは指揮中枢破壊され敗北する恐れ指摘された。また本ドクトリンに基づくと予備隊がほとんどなくなるため、防御において戦力集中する場合には、防御線上陣地配置していた部隊を、防御線に沿って側方から敵の突破地点投入することになるが、このような行動指揮統制システムに非常な負担掛けるものであった。 また本ドクトリンは、ソ連軍第二次大戦行ったような大兵力による貫通打撃massive armed breakthrough)への対応に適したものであったが、当時ソ連軍使用し始めていた、より小規模部隊による先制攻撃や、前線弱点に付け込むための多分岐攻撃Bold, multiple-pronged attacks)に対しては不安が残った

※この「ADドクトリンの創案と論争」の解説は、「エアランド・バトル」の解説の一部です。
「ADドクトリンの創案と論争」を含む「エアランド・バトル」の記事については、「エアランド・バトル」の概要を参照ください。

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