ADドクトリンの創案と論争
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「エアランド・バトル」の記事における「ADドクトリンの創案と論争」の解説
ベトナム戦争中、陸軍の関心は、捉えどころのない敵に対する対反乱作戦(COIN)に注がれていたが、ベトナムからの撤退とともに、再びヨーロッパを主戦場にした想定でのドクトリンの検討に着手した。撤退と同年の1973年7月には、陸軍全体の教義や訓練基準を定めるための訓練教義コマンド(TRADOC)が創設されており、同年10月の第四次中東戦争が早速研究対象となった。 これらの研究を踏まえて、まずFM100-5の1976年版で導入されたのがアクティブ・ディフェンス(Active Defense, AD)ドクトリンであった。これはソ連を含むワルシャワ条約機構(WPO)軍の攻撃初動に対する打撃(第一会戦)を最終決戦と見做すほどに重視し、前方部隊を減殺するとともに後続部隊をも打撃して、速やかに防勢から攻勢に転移して主導権を奪回することを狙っていた。特に、第一防御線の一帯だけで戦うことを重視し、幾重にも渡って防御線を構築しての縦深防御をほとんど放棄している点と、部隊を予備隊として温存するより第一線に配置して火力を発揮させることを優先するという点は、従来のドクトリンと大きく異なる点であった。 1976年版FM100-5は、発表直後から陸軍内外から高い評価と厳しい批判を同時に受け、これらの批判に真摯に対応するTRADOC司令官デピュイ大将(英語版)の姿勢もあって、戦い方について陸軍史上で最も活発に議論されたドクトリンとなった。 まず問題となったのが、敵に先制を許した場合に主導権を奪回できるか、また敵の電子戦に対して攻勢転移まで指揮統制システムが耐えられるかといった点であった。すなわち、第一会戦に勝利しても第二会戦は不可避であり、そしてソ連軍のドクトリンは第一会戦よりむしろ第二・第三の会戦に勝利することを重視していることから、もし第一会戦に勝利しても、第二梯隊の突進を許して最終的に包囲殲滅されるか、あるいは指揮中枢を破壊されて敗北する恐れが指摘された。また本ドクトリンに基づくと予備隊がほとんどなくなるため、防御において戦力を集中する場合には、防御線上の陣地に配置していた部隊を、防御線に沿って側方から敵の突破地点に投入することになるが、このような行動は指揮統制システムに非常な負担を掛けるものであった。 また本ドクトリンは、ソ連軍が第二次大戦で行ったような大兵力による貫通打撃(massive armed breakthrough)への対応に適したものであったが、当時ソ連軍が使用し始めていた、より小規模の部隊による先制攻撃や、前線の弱点に付け込むための多分岐攻撃(Bold, multiple-pronged attacks)に対しては不安が残った。
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