4社企業連合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「4社企業連合」の解説
モルガンのパートナーであるジョージ・W・パーキンズ(en)がマックスウェル=ブリスコーのベンジャミン・ブリスコー(Benjamin Briscoe)に提案した。ブリスコーはモルガン商会から支援を受けていた。自身も同様の考えを心に抱いていたデュラントはブリスコーからジョージ・W・パーキンスの計画を聞いて話にのった。トラストを狙いトップ4社での株式交換による持株会社設立の画策だった。「自動車業界におけるUSスチールのような支配的な影響力を持つ一大企業連合を形成することを目的としていた」とブリスコーも後に述べている。 デュラントによれば、ブリスコーは、パッカード、ピアレス、ピアスアロー、スドッダード=デイトン、ERトーマス、を含めたいと漠然と考えていた。「私は彼に正直にいった。その計画がうまくいくとは思えないな。私の意見としては、大規模すぎる、参加会社数が多すぎる、利害関係が入り組んでいて調停は大変だ。」デュラントは、もっと少ない数の自動車会社で、中程度の価格帯で量産できるような自動車会社で試みるように、とデトロイトのフォード・モーター・カンパニー、ランシングのレオ・モーター・カー・カンパニー、ビュイック、マックスウェル=ブリスコーを提案した。フォードは世人の注目の渦中にあった。特にヘンリー・フォードが重要で、彼が先頭にいなければ隊列は進まないと主張した。 1908年時点での4大自動車会社は1907年にN型が好評で販売台数全米一位となったヘンリー・フォードのフォード、1908年に同じく一位となるデュラントのビュイック、そしてランサム・E・オールズのREO(レオ)、ベンジャミン・ブリスコーのマックスウェル=ブリスコーだった。この4社が集まった。 第一回目の会合は1908年1月17日にデトロイトのペノウスコットビルディングで開かれた。ブリスコーがREオールズとフォードにそれぞれ事前に個別に会い、話をつけていた。フォード側はヘンリー・フォードとともにフォードの元で働いていたジェームズ・J・コウゼンズが出席した。コウゼンズはのちデトロイト市長を経て上院議員となる人物である。モルガンから提示された条件は、1)株式交換で行うこと、2)評価額はフォードが1000万ドル、REOが600万ドル、ビュイックが500万ドルで評価。これらに対して異論は出なかった。 ブリスコーは、4社の購買、技術、宣伝販売のそれぞれの部門を統合して、中央の委員会が全事業方針を支配すべきと説明した。デュラントは、ブリスコーの計画は問題を複雑にすると考えた。個別の会社内の運営での衝突は避けるべきと感じていた。デュラントが求めていたものは持株会社だった。これを聞いて、ブリスコーは南軍と北軍にたとえて「デュラントは州の権限(states' rights)を要求する。私は連邦(union)を要求する」といった。一般的な会話以上のことが話し合われたが、ヘンリー・フォードだけは静かだった。 一週間後の1月24日から25日にかけて二回目の会合がニューヨークの法律事務所ウォード・ヘイデン&サタリーを会場とし、ハーバート・サタリー(Herbert Satterlee)を交(まじ)えて開始された。モルガンからの資金提供を受けていたベンジャミン・ブリスコーは交渉の実務をサタリーに頼むのが適切と考えていた。(のちにブリスコーは「フォードの推薦する弁護士を使っていたなら事の成り行きは違っていただろう」とコメントしている。)サタリーはのちにJ. P. モルガンの長女と結婚しモルガン家の一員となった人物で、モルガンの意向、つまり金融界の意向を代表していた。 フォード側は、この時点で、「トラストを結成することで価格を上げることを考えているのではないか。フォードは価格を下げて大衆のためのユニバーサルカーとなることのみに興味がある」と発言した。多くの合併が製品価格の上昇を目的としているとフォードは感じていた。しかし、フォードは価格を可能な限り最低レベルに維持し、安価な輸送手段として大量に使ってもらえるようにしたいと思っていた。 5月11日ニューヨーク、5月末にも会議が開かれた。ブリスコーの議事録では、「フォードを代表したコウゼンズ(Couzens)とレオ社のREオールズはそれぞれ現金300万ドルとの交換を要求し、モルガンがこれを断ったため、話はまとまらなかった。フォード側は単なる株式交換は望まず現金300万ドルでの売却を希望し、ヘンリー・フォードがGM株主になってGMに縛られるのではなく、手にする現金によって自身が再び一から新会社を設立し独自の活動ができる道を主張した。これを聞いたREオールズはREOも同じく300万ドルの現金を希望すると主張した。デュラントは「株式交換でも現金による買収でも、いずれにしてもフォードやREOが手に入るのであれば安い買い物だ」と考えた。しかしモルガン側は2社合わせて現金600万ドルを賭けるまでのこととは考えなかった。N型である程度の評価を得ていたがT型は発表したばかりでまだ販売に至っていないフォードは世の中一般にはまだそれほどの評価を得ていなかった。モルガンが降り、話し合いは決裂した。この当時のモルガンは、自動車産業界支配のための600万ドル投資を惜しんだのだった。」デュラントの議事録では「具体的な額の提示はなかった」とされている。
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