2007年12月以降の暴動
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「アビエイ」の記事における「2007年12月以降の暴動」の解説
2007年12月及び2008年1月アビエイ地域でのSPLAとミッセリア戦闘員の間の武力衝突で75人が死亡したと報じられた。分析家は和平を脅かすものだと論じた。ミッセリアの指導者は放牧に悪影響があるから境界画定に反対であると声明した。2008年2月の報道はミッセリアが南北間の道路を封鎖して市民を殺害し、土地の利用を認めるよう脅迫していると報じた。 より大きな衝突が3月1日に起りおよそ70人が殺害された。双方が相手側から戦闘が始まったと非難し、専門家は再度和平プロセスの崩壊と内戦の再開に繋がると警告した。 3月末ヘグリグ油田から20kmの地点で衝突が起き、3人のミッセリア戦闘員の死と数百人の市民の避難が報じられた。 3月31日には北部から200人以上の兵士が派遣されアビエイの町に入り学校に宿営したことで更に緊張が高まった。この部隊は5月中旬にSPLAと2日間衝突し12人の死亡と25,000人の市民の避難が報じられた。 5月20日の戦闘でSPLAは戦車と重火器で北部政府軍のアビエイ地域の宿営を攻撃し10人が死亡し町の中心部が焼失した。 専門家はアビエイ地域での衝突を南北の和平の文脈で論じ、何人かはミッセリアがハルツームに直接操縦されていないと信じているが、別の観点からは地域での資源に関する論争は容易に外部の力で操られると指摘されている。 2011年5月21日、北部政府軍はアビエイ地域に戦車隊を投入、SPLAとの交戦の末にこれを奪取した。 2012年3月、南スーダン軍が油田地帯に侵攻を端緒とした南北スーダン国境紛争が発生した。
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