2004-2012年:コフィディス時代
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エリート1年目にしてトラック競技のフランス選手権個人追い抜きで3位に入り銅メダルを獲得。 翌年には、ディフェンディングチャンピオンのファビアン・サンチェスとジョナサン・モウシェルを抑えて、個人追い抜きフランスチャンピオンに輝いた。 2006年、ボルドーで開催されたトラック世界選手権に参加し、個人追い抜きで8位入賞を果たした。 2007年、ブエルタ・ア・エスパーニャ初出場し、総合129位で完走。同年、ツール・ド・ヴァンデでは8位に入った。 2008年、3月にはボルタ・アオ・ディストリート・デ・サンタレンの第3ステージのタイムトライアルで8位に入り総合7位、6月には、フランス選手権の個人タイムトライアルで5位となるなどタイムトライアルで好成績を収めた。同年、初のジロ・デ・イタリアに初出場し、総合111位でフィニッシュした。夏には、トラックの個人追い抜きで2度目のフランス選手権タイトルを獲得。 2009年、2月にはエトワール・ド・ベセージュで総合8位、ツール・メディテラネアンでは総合5位でゴール。4月には、シルキュイ・ド・ラ・サルトの第3ステージのタイムトライアルで4位に入り、総合9位でゴール。6月には、UCIワールドツアーのツール・ド・スイスで総合19位。8月には、ツール・ド・ランでグランコロンビア峠の山頂フィニッシュとなった第5ステージではチームメイトのレイン・タラマエ、ダヴィ・モンクティエについで3位でゴール、総合でも4位に入るなどシーズンを通してステージレースの総合争いに加わった。 2010年、ジロ・デ・イタリアのスタート2日前に負傷したトリスタン・ヴァレンティンの代理としてにジロに出場。第17ステージでは逃げ切り、プロ初勝利を挙げた。同年、ツール・ド・フランスに初出場。山岳ステージでは先頭集団に残る最後のフランス人選手になることが多かった。2週目までは総合20位前後だったものの、3週目で大失速し最終的には総合71位で完走した。しかし、自転車競技の観察者の中には、この選手の成熟度がやや遅れていることを発見した人もいる。 2011年、シーズン前半のツール・オブ・ターキーでは総合12位に入ったが、酵素の生産量に問題があったことで、8月には出場停止を余儀なくされ、シーズンを中断した。 2012年1月、クレルモンフェラン近郊のオービエールの町でトレーニング中に車にはねられ、複数の骨折を負った。同年末、9年間所属した、コフィディスとの契約は更新されず、移籍を余儀なくされた。
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