1996年 - 1997年: セルビアでの抗議運動
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「ブリツ」の記事における「1996年 - 1997年: セルビアでの抗議運動」の解説
1996年11月、セルビアの全ての市町村(オプシュティナ)で統一地方選挙が行われた。選挙では民主党やセルビア再生運動などの野党が躍進したが、スロボダン・ミロシェヴィッチはこの選挙結果の受け入れを拒否し、抗議運動(1996–1997 protests in Serbia)に発展した。ブリツはすぐに選挙結果を支持する立場をとり、流通部数は20万部にまで伸びたが、同時にミロシェヴィッチ政権の反感を買うこととなった。 国営メディアは抗議運動についてほぼ全く取り扱わず、独立メディアの書いている内容は誤りだと報じている中、ブリツは毎日、抗議運動を紙面で大きく取り上げ続けた。ミロシェヴィッチ政権による報復は素早く、ブリツの印刷や販売所の使用を制限し、国営の印刷所は8万部以上の印刷を拒否した。1996年の11月29日(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国建国記念日)、国営のボルバ印刷所はブリツの編集部に対し、「技術的理由により」ブリツ側の要求する23万5千部を印刷できないと伝え、その3分の1程度を印刷部数の上限とした。このため、国営のぼるば印刷所の他に、民営のABCプロドゥクトが印刷したものが市中の販売所に出回るようになった。しかし、抗議運動を大胆に取り扱ったブリツの新方針は撤回され、従来のエンターテインメントと軽々しいニュース報道に戻された。ブリツが雇用する43人のジャーナリストはこの問題を避け、編集長のマニョ・ヴコティッチと副編集長のツヴィエティン・ミリヴォイェヴィッチ(Cvijetin Milivojević)は同問題に抗議して辞任した。特に問題の中心となったのは、「我々は暴力を推奨しない」と題される記事は政権寄りの内容で、ブリツの保有者を代表してペーター・ケルベルが書いたとされている。この記事でケルベルは抗議運動を非難し、体制を支持するよう呼びかけ、「ユーゴスラヴィアは生産的な人々を求めており、群れになって狩りをするオオカミ(vuk)を求めてはない」と書き、暗に野党指導者のヴク・ドラシュコヴィッチ(Vuk Drašković)を非難している(「ヴク(vuk)」はセルビア語で「オオカミ」を意味する)。これ以降、ブリツは抗議運動を紙面であまり取り上げなくなり、発行部数も減少した。ブリツは政権からの圧力に屈した形となり、大幅に政治報道を減らした 体制に屈したことで、ブリツの保有者は自社のジャーナリストや編集者たち、セルビアの野党からの非難を浴びることとなった。1996年12月、ブリツのジャーナリストや編集者たちは、野党の民主党の支持を受けて独自の新聞「デモクラツィヤ(Demokratija)」を立ち上げた。ブリツの転向に嫌気して一時見を引いていたヴコティッチらブリツのスタッフの中には、後に復帰してきた者も少なくなかったが、ブリツの発行部数は6万部ほどにまで落ち込んだ。 その後ブリツは新たに民営の印刷所と契約し、発行部数は16万部ちかくまで回復した。
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