1995年以前のWCW、ビショフの支配
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「マンデー・ナイト・ウォーズ」の記事における「1995年以前のWCW、ビショフの支配」の解説
マンデー・ナイト・ロウが開始した同じ年、WCWは元AWAのアナウンサーのエリック・ビショフを引き抜いて、取締役副社長(実質トップ)のポストに置いた。ビショフの最初の年はまさに災難であった。ブッカーのオレイ・アンダーソンとダスティ・ローデスは、例えばカクタス・ジャックが記憶喪失になってしまうストーリーラインなどの、レスリングに焦点の定まらないアングルをこしらえた。 1993年の夏、リック・フレアーがWWFからWCWに復帰するが、契約上試合ができなかった。そこで金色のセットを別に作り『ア・フレアー・フォー・ゴールド』というフレアーのトークショーのコーナーを設けて、興行の観衆に見せた。『スラムボリー1993』において、WCWは伝説のユニット、フォー・ホースメンの再結成を約束する。しかし、薬物検査に引っかかってWWFを追い出されたと噂されたタリー・ブランチャードに代わったのは、WWFでジョバーをやっていたポール・ローマだった。 他の有名なひどい出来事としては、マスクマンのザ・ショックマスターが挙げられる。WCWはベビーフェイス側に「謎のパートナー」として、フレッド・オットマンにショックマスター役をやらせた。ところが生放送の初登場時、壁を破って出て来た際、オットマンは転倒しヘルメットが脱げてしまった。その後ショックマスターはいくつかの試合には勝ったものの、「冗談キャラ」として見られるようになってしまった。 さらに同年、WCWはディズニー/MGMスタジオから「WCWワールドワイド」のような番組を制作するため、試合の収録を開始した。ところがこの番組は、数ヶ月後に全国に配給される番組であったため、例えばまだ現在のストーリーラインではチャンピオンになってない選手が、やむを得ずベルトを持って登場するといった具合であった。これはケーフェイの不履行と見なされて、結局1993年9月にWCWがNWAを離れるきっかけともなった。 この年の終わりに、WCWはもう一度リック・フレアーを中心にして団体を立て直そうとした。これはいずれにしても必要なことであった。というのも、『スターケード』4週間前のイギリス巡業の時に、将来のトップのベビーフェイスであったシッド・ビシャスが、アーン・アンダーソンと口論になり、はさみでアンダーソンを攻撃して両者とも負傷し、結局解雇になった。この事件が起こる前に、全国配給の収録ではビシャスをWCW世界ヘビー級王者として扱っていたのだ。ビシャスは『スターケード1993』でベイダーを倒す予定であったが、それが狂ってしまった。フレアーがビシャスに代わって王座を獲得し、再びブッカーになった。 1994年、ビショフはマクマホンのWWFに開戦を宣言し、ハルク・ホーガン、ランディ・サベージといった元WWFの高額なレスラーたちを積極的に引き抜いた。ビショフはテッド・ターナーの財源を使うことができたため、ホーガンとサベージは、複数年、数百万ドルのギャラといった、当時のレスラーではあり得ないほどの条件を得ることができた。契約金が暴騰することで、他のレスラーも追随し、次年度以降のWWFからの引き抜きに問題が生じるかもしれなかった。特にホーガンは、ビショフとの関係を通して非常に大きな影響力を持った。 ホーガンを雇用して初めてのPPV興行『バッシュ・アット・ザ・ビーチ』では、ホーガンがフレアーをピンフォールしてWCW王座を奪った。しかしこの2人は、1991年から1992年にWWFに在籍していたスターであり、新鮮味のあるカードではなかった。この時視聴率では成功したが、この成功は長くは続かなかった。1995年半ばにターナーの経営陣が会社の状態を調べた時、経営はあまりうまくいってないことを知ることとなった。ターナーはビショフを呼び、個人的な会合が開かれた。
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