1994-96年: 長期レコーディング
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「X JAPAN」の記事における「1994-96年: 長期レコーディング」の解説
ワーナーミュージック・ジャパンとの契約後に最初に取り組んだのが、『Jealousy』に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのボーカル録りが難航。さらに、ベースのTAIJIの脱退によりできあがっていたベースラインをHEATHのベースラインに録り直した。1993年8月に、ようやくリリースされる。 これと並行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX JAPAN本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどしたために、X JAPANのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、X JAPANのニューアルバムのレコーディングは遅々として進まなかった。 本来、『Jealousy』に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされる予定で、『日本向けと海外向けの2作品を同時に制作中』『過去の楽曲の英詞ヴァージョンをレコーディング中』だった。しかし、TOSHIの英語の発音の問題や、ニルヴァーナなどのグランジがロック・シーンで注目されるようになっていたこともあり、「今X出しても売れないな」というYOSHIKIの判断の下に海外進出を断念した。 長期にわたるレコーディングはワーナーミュージック・ジャパンとの関係をも悪化させる。完成していないマスターテープを担保にした銀行融資も、ままならなくなり、YOSHIKIは愛車フェラーリを制作費捻出のために売却、レコーディングを続行。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング作業を維持するために、苦肉の策として仕上った楽曲を次々とシングルとしてリリース。YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアのために数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念した。 ニューアルバムのレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、全国ツアー『DAHLIA TOUR 1995-1996』が開始。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1 - 2週間に1カ所で2日間という日程だったが、翌1996年3月13日、名古屋公演1日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発したことで、以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。福岡の延期を除く18公演中、7公演が中止となった。福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止となった。 長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナル・アルバム『DAHLIA』リリース。しかし5年4ヶ月もの歳月を掛けたにも関わらず、アルバム発売以前に全10曲中6曲までシングルリリースされる(『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカット)、ベスト盤的アルバムとなった。この頃から、TOSHIはX JAPANの存在と活動に息苦しさを感じるようになったと発言している。 1996年12月、『DAHLIA TOUR 1995-1996』のツアーファイナルとなる、『DAHLIA TOUR FINAL』を東京ドームで開催。
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