1986-1991
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「レッドスター・ベオグラード」の記事における「1986-1991」の解説
1986年、復帰したジャイッチを始めとするフロント陣は5年に渡る長期計画を立て、欧州制覇という大目標を掲げる。そしてジャイッチに才能を見いだされ、「ピクシー」ことドラガン・ストイコヴィッチが入団したのもこの年であった。1987年の夏より5ヶ年計画は始まった。 1987年3月4日、スペインのレアル・マドリードにホームで勝利した日から1992年3月4日までの5年間は黄金時代といえる最良の時間となった。ヴラディミル・ユゴヴィッチ、シニシャ・ミハイロヴィッチ、ロベルト・プロシネチュキ、デヤン・サヴィチェヴィッチなどのユーゴスラビア代表にルーマニア代表ながらセルビア人のミオドラグ・ベロデディッチを加え、国内リーグでは5シーズンで4度の優勝を飾った。ストイコヴィッチは3年連続でMVPを獲得するなど大活躍したが、1990年にクラブを去った。この5年間で監督は5人変わったが、フロント陣の顔ぶれに変わりはなかった。 1990年4月から5月にかけてユーゴスラビア各地で初の自由選挙が行われ、連邦を構成する各共和国で独立の機運が高まっていた。5月13日、ザグレブのスタディオン・マクシミールで行われたディナモ・ザグレブとの試合で暴動が起こり、これをきっかけにユーゴスラビア全土に戦火が広がっていくことになる(詳細は1990年ディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラード戦での暴動およびユーゴスラビア紛争を参照)。 UEFAチャンピオンズカップ 1990-91ではスイスのグラスホッパー、スコットランドのレンジャーズ、東ドイツのディナモ・ドレスデン、西ドイツのバイエルン・ミュンヘンを次々と破る快進撃で決勝に進出した。1991年5月29日、レッドスターはイタリア・バーリのスタディオ・サン・ニコラで行われた決勝戦でスコアレスのままPK戦までもつれ込んだ末にフランスのオリンピック・マルセイユに勝利しクラブ史上唯一の欧州制覇を成し遂げた。皮肉にも前年までクラブに多大な貢献をしてきた「第5の星人」ストイコヴィッチはマルセイユのベンチを暖めていた。マニュエル・アモロスのPKを止めたステヴァン・ストヤノヴィッチはキャプテンとしてビッグイヤーを掲げ、試合を決めるPKを蹴ったダルコ・パンチェフはこのシーズンのヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得した。その後のUEFAスーパーカップでは紛争によってホームで試合を行うことができずイングランドのマンチェスター・ユナイテッドに敗れたものの、インターコンチネンタルカップでチリのコロコロを破り世界一となった。その時に掲げられた「スルビヤ・ド・トキヤ(セルビアを東京へ)」というスローガンはユーゴスラビア紛争で多用されることとなった。
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