1970年代:党体制の改革と混乱の継続
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「アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1970年代:党体制の改革と混乱の継続」の解説
1968年の混乱と大敗の後、民主党はマクガヴァン・フレイザー委員会(英語版)の提案を受け、全国大会代表の選出方法について抜本的な改革を行った。すなわち、予備選挙により重点を置き、大統領候補選出における一般党員の関与を高めたのである。 新しい制度下で行われた1972年アメリカ合衆国民主党予備選挙(英語版)では、ハンフリーや復党したジョージ・ウォレス、エドマンド・マスキーの他、アメリカ最初の黒人女性議員で、主要政党において黒人初の、また民主党においては女性初の大統領立候補者シャーリー・チゾム等が出馬した。当初はマスキーが有力視されていたが、新聞報道に感情的に抗議する姿が報道された影響で苦戦し、最終的にはサウスダコタ州選出の上院議員で、1968年の大統領選ではロバート・ケネディの後を継いだジョージ・マクガヴァンが、草の根の反戦運動に支えられて指名を獲得した。マクガヴァンは「帰ってこい、アメリカ!」を標語にベトナムからの即時撤退を掲げるとともに、すべてのアメリカ人への最低限所得保障を選挙公約にした。 しかし、マクガヴァン・フレイザー委員会の改革により様変わりした大統領候補指名選挙は、混乱を免れなかった。特に、リチャード・J・デイリー(英語版)シカゴ市長率いる集票組織(マシーン)が力を持っていたイリノイ州では、予備選挙で大統領候補ではなく、州代表を選ぶ方式を取り、ほとんどがデイリーの息のかかった代表が選出されたが、マクガヴァン支持者の訴えを受けてこの代表団は無効とされ、フロリダで開かれた1972年民主党全国大会(英語版)には、代わってジェシー・ジャクソン等が率いる選挙を経ていない反主流派が代表となった。 更に、テッド・ケネディ上院議員に断られたこともあって、副大統領候補選びが難航した。ようやくトーマス・イーグルトン(英語版)が選出されたが、全国大会の数日後、イーグルトンがうつ病で入院し、電気ショック療法を受けていた経歴が明らかになると、強い反対運動が起きた。当初、マクガヴァンはイーグルトンを「1000%支持する」と語ったが、結局は新しい候補を見つけざるを得なくなった。数週にわたって選挙運動を停滞させた後、マクガヴァンはようやく、ケネディ家の姻戚でデイリー市長に近いサージェント・シュリバー(英語版)を副大統領候補に選んだ。このような混乱に加え、影響力を削がれた民主党幹部層の中にはマクガヴァンを支持しないものが多く、本選挙の選挙運動は低迷した。一方、共和党の現職大統領リチャード・ニクソンは1期目の実績が高く評価されていたこともあり、民主党はマサチューセッツ州とワシントンD.C.のみの獲得に終わるという歴史的な大敗を喫した。 なお、マクガヴァンは全国大会で、自身の選挙運動責任者であるジーン・ウエストウッド(英語版)を女性初の民主党全国委員長に任命している。
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