1970年代:党体制の改革と混乱の継続とは? わかりやすく解説

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1970年代:党体制の改革と混乱の継続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)

アメリカ合衆国民主党の歴史」の記事における「1970年代:党体制の改革と混乱の継続」の解説

1968年混乱大敗の後、民主党はマクガヴァン・フレイザー委員会英語版)の提案を受け、全国大会代表の選出方法について抜本的な改革行った。すなわち、予備選挙により重点を置き、大統領候補選出における一般党員関与高めたのである新し制度下で行われた1972年アメリカ合衆国民主党予備選挙英語版)では、ハンフリー復党したジョージ・ウォレスエドマンド・マスキーの他、アメリカ最初黒人女性議員で、主要政党において黒人初の、また民主党においては女性初の大統領立候補者シャーリー・チゾム等が出馬した当初マスキー有力視されていたが、新聞報道感情的に抗議する姿が報道され影響苦戦し最終的にサウスダコタ州選出の上院議員で、1968年大統領選ではロバート・ケネディの後を継いだジョージ・マクガヴァンが、草の根反戦運動支えられ指名獲得したマクガヴァンは「帰ってこい、アメリカ!」を標語ベトナムからの即時撤退掲げとともにすべてのアメリカ人への最低限所得保障選挙公約にした。 しかし、マクガヴァン・フレイザー委員会改革により様変わりし大統領候補指名選挙は、混乱免れなかった。特に、リチャード・J・デイリー英語版シカゴ市長率い集票組織マシーン)が力を持っていたイリノイ州では、予備選挙大統領候補ではなく州代表を選ぶ方式取り、ほとんどがデイリーの息のかかった代表が選出されたが、マクガヴァン支持者訴え受けてこの代表団無効とされ、フロリダ開かれた1972年民主党全国大会英語版)には、代わってジェシー・ジャクソン等が率い選挙経ていない反主流派が代表となった。 更に、テッド・ケネディ上院議員断られたこともあって、副大統領候補選び難航した。ようやくトーマス・イーグルトン(英語版)が選出されたが、全国大会数日後イーグルトンうつ病入院し電気ショック療法受けていた経歴明らかになると、強い反対運動起きた当初マクガヴァンイーグルトンを「1000%支持する」と語ったが、結局は新し候補を見つけざるを得なくなった。数週にわたって選挙運動停滞させた後、マクガヴァンはようやく、ケネディ家姻戚デイリー市長に近いサージェント・シュリバー(英語版)を副大統領候補選んだこのような混乱加え影響力を削がれた民主党幹部層の中にはマクガヴァン支持しないものが多く本選挙選挙運動低迷した一方共和党現職大統領リチャード・ニクソン1期目実績高く評価されていたこともあり、民主党マサチューセッツ州ワシントンD.C.のみの獲得に終わるという歴史的な大敗喫した。 なお、マクガヴァン全国大会で、自身選挙運動責任者であるジーン・ウエストウッド英語版)を女性初の民主党全国委員長任命している。

※この「1970年代:党体制の改革と混乱の継続」の解説は、「アメリカ合衆国民主党の歴史」の解説の一部です。
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