1945-1965
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:14 UTC 版)
「レッドスター・ベオグラード」の記事における「1945-1965」の解説
第二次世界大戦中の1945年3月4日、レッドスターはユーゴスラビア反ファシスト青年連合同盟(USAOJ)セルビア支部のメンバーによって総合スポーツクラブとして創設された。レッドスターのサッカー部門は戦前の名門クラブだったSKユゴスラヴィヤの資産を受け継ぎ、ユゴスラヴィヤとBSKの選手によって構成され、終戦後の1946年からユーゴスラビアリーグに参加した。 キャプテンとしてクラブを牽引した「チカ」ことライコ・ミティッチを中心に1948年から1950年まで3年連続でユーゴスラビアカップを優勝したクラブのリーグ初優勝は1951シーズンであった。1955年には前年王者ハイドゥク・スプリトの中心選手だったヴラディミル・ベアラやドラゴスラヴ・シェクララツなどを獲得。後に「第1の星人」となるミティッチと「第2の星人」となる「シェキ」ことシェクララツを筆頭に多くの代表選手が顔を揃えたクラブはこのシーズンからリーグ4連覇を達成するなど国内では無類の強さを見せ、1950年代は6回のリーグ優勝と2回のカップ優勝を記録した。 欧州の舞台に初めて姿を見せたのは、1956-57シーズンのUEFAチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身)であった。この大会ではオランダのラピドJCケルクラーデ、ブルガリアのCDNAソフィアを破り準決勝まで勝ち進むが、準決勝では得点を奪えないままイタリアのフィオレンティーナに敗れた。2年後の1958-59シーズンはルクセンブルクのスタッド・デュドランジュを相手に当時の最多得点記録となる2試合計14対1の大差で勝利するものの、準々決勝でイングランドのマンチェスター・ユナイテッドに敗れた(第2戦終了後にミュンヘンの悲劇が発生した)。 1960年代に入ると50年代までの強さは影を潜め、3シーズン連続で無冠に終わる。1962-63シーズンはクラブ史上最低順位となる7位に低迷し、得点数は降格争いをしていたヴォイヴォディナ・ノヴィ・サドの半数以下であった。
※この「1945-1965」の解説は、「レッドスター・ベオグラード」の解説の一部です。
「1945-1965」を含む「レッドスター・ベオグラード」の記事については、「レッドスター・ベオグラード」の概要を参照ください。
- 1945-1965のページへのリンク