1922–1923
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 23:42 UTC 版)
「リンカーン・Lシリーズ」の記事における「1922–1923」の解説
財政難に陥ったリーランドは、1922年に会社をヘンリー・フォードに800万ドルで売却したが、この金額は管財人のアーサー・J・タトル裁判長によって決定された。ヘンリー・リーランドは会社の価値を1600万ドル以上と見積もっていた。数ヶ月後、ヘンリー・フォードの経営スタイルを理由にリーランド家は会社を去り、ヘンリー・フォードの息子のエドセル・フォードがLシリーズの新しいボディを設計した。エドセルは社長に、アーネスト・C・カンツラーはゼネラルマネージャーに就任した。フォードにリンカーンが吸収された初年度、頑丈な車であったLシリーズに油圧式ショックアブソーバーが追加された。 エドセルとカンツラーは生産経済を導入して、製造コストを1台あたり約1000ドル削減した。 ホイールベースが130インチから136インチに拡大された以外は、リンカーン・モデルLのシャシーには大きな変更はなく、60度のLヘッドV8エンジンが生産され続けた。このV8では、フォーク&ブレードと呼ばれるピストンコンロッドに斬新なアプローチが採用された。これは、2本のコンロッドがクランクシャフト上の1つのベアリングを共有することを意味し、クランクシャフトを短くしてエンジン全体のサイズを小さくしながらも、357.8 cu in (5.9L)の排気量を実現した。また、両バンクのシリンダーは互いに相殺されていない。 1923年にはエドセルの指揮のもと、2窓と3窓の4ドアセダン、4人乗りのフェートンなど、いくつかの新しいボディスタイルがモデルLに導入された。その他にも、2人乗りのロードスター、7人乗りのツーリングセダンとリムジンが5,200ドルで発売された。 セダン、リムジン、カブリオレ、タウンカーはコーチビルダーのフリートウッド(英語版)、ダーラム(英語版)、ディートリッヒ(英語版)によって提供され、カブリオレはコーチビルダーのブラン(英語版)によって提供されたボディを選ぶ事もできた。これらのコーチビルダーによってボディが架装された車は7,200ドルもした。比較的ニッチな市場セグメントであったにも関わらず、リンカーンの売上は約45%増加し、7,875台を生産し、1923年末には利益を上げていた。 年度エンジン馬力トランスミッションホイールベースタイヤサイズ1923 357.8CID 90 3速マニュアル 136 in (3,454 mm) 23"
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