1918年の流感禍とは? わかりやすく解説

1918年(大正7年)の流感禍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 08:11 UTC 版)

矢矧 (防護巡洋艦)」の記事における「1918年大正7年)の流感禍」の解説

第一次世界大戦日本連合国側参戦した日本海軍南方方面二等巡洋艦などを派遣しドイツ東洋艦隊捜索及びドイツ南洋諸島占領従事した巡洋艦矢矧1917年大正6年2月呉軍港を出航し太平洋インド洋方面海上警備索敵にあたっていたが、1918年大正7年10月軍艦千歳との交代命令接しオーストラリアシドニー出航して艦隊司令部のあったシンガポール11月9日入港した交代艦の到着まで碇泊乗組員半舷上陸許可したこの年世界的にスペインかぜインフルエンザ)が流行し、他の艦艇にも被害者出ていたにもかかわらず艦長山口一大佐はシンガポール市街前に乗組員艦内閉じ込めておくのは士気影響する判断した推測される出航後それが艦内蔓延し凄惨な状況になった11月30日シンガポール出航12月5日マニラ入港、来艦者は、上下甲板至る所倒れてうめいているという状態に「腰ヲ抜カサンバカリニ驚ク」という。12月9日普門副長死亡10日に14名、11日に5名、12日8名、13日4名が死亡した死亡者艦内6名病院42名の48名に及んだ便乗者を含む乗員469名のうち)。1921年大正10年1月19日英国墓地サンピドロ、マガチに石造高さ一丈六尺の「在馬尼剌軍艦矢矧病没墓碑」が建設され墓碑銘刻まれ同日納骨が行われた。このほか、矢作神社への写真額の奉納1920年大正9年5月27日)、分霊艦上安置1920年9月7日)、1/100模型奉納1921年10月末)と乗組員全員参拝実施された。なお、昭和12年3月4日呉海軍墓地内に残存有志の手により「軍艦矢矧殉職者之碑」が建立された。この碑は昭和48年墓碑資格審査に基づき、表の題字と裏の金属板がはがされ昭和57年題字のみ復元された。裏の金属板の文章記録がないとされてきたが、「呉新聞」の記事全文思われるものが掲載されており、復元設置望まれる。また 矢作神社分霊矢矧艦上安置されたのは、海軍内でもさきがけであり、こののち艦内神社海軍全体広まったといわれている。

※この「1918年(大正7年)の流感禍」の解説は、「矢矧 (防護巡洋艦)」の解説の一部です。
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