1918年(大正7年)の流感禍
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「矢矧 (防護巡洋艦)」の記事における「1918年(大正7年)の流感禍」の解説
第一次世界大戦で日本は連合国側に参戦した。日本海軍は南方方面に二等巡洋艦などを派遣し、ドイツ東洋艦隊捜索及びドイツ領南洋諸島占領に従事した。巡洋艦矢矧も1917年(大正6年)2月、呉軍港を出航し太平洋、インド洋方面で海上警備、索敵にあたっていたが、1918年(大正7年)10月、軍艦千歳との交代命令に接し、オーストラリアのシドニーを出航して艦隊司令部のあったシンガポールに11月9日に入港した。交代艦の到着まで碇泊、乗組員の半舷上陸を許可した。この年は世界的にスペインかぜ(インフルエンザ)が流行し、他の艦艇にも被害者が出ていたにもかかわらず艦長の山口伝一大佐はシンガポール市街を前に乗組員を艦内に閉じ込めておくのは士気に影響すると判断したと推測される。出航後それが艦内に蔓延し、凄惨な状況になった。11月30日シンガポールを出航、12月5日にマニラ入港、来艦者は、上下甲板至る所に倒れてうめいているという状態に「腰ヲ抜カサンバカリニ驚ク」という。12月9日普門副長死亡、10日に14名、11日に5名、12日8名、13日4名が死亡した。死亡者は艦内6名病院42名の48名に及んだ(便乗者を含む乗員469名のうち)。1921年(大正10年)1月19日に英国墓地サンピドロ、マガチに石造高さ一丈六尺の「在馬尼剌軍艦矢矧病没者墓碑」が建設され、墓碑銘が刻まれ、同日納骨式が行われた。このほか、矢作神社への写真額の奉納(1920年(大正9年)5月27日)、分霊の艦上安置(1920年9月7日)、1/100模型の奉納(1921年10月末)と乗組員全員の参拝も実施された。なお、昭和12年3月4日、呉海軍墓地内に残存有志の手により「軍艦矢矧殉職者之碑」が建立された。この碑は昭和48年「墓碑資格審査」に基づき、表の題字と裏の金属板がはがされ、昭和57年、題字のみ復元された。裏の金属板の文章は記録がないとされてきたが、「呉新聞」の記事に全文と思われるものが掲載されており、復元設置が望まれる。また 矢作神社の分霊が矢矧艦上に安置されたのは、海軍内でもさきがけであり、こののち艦内神社が海軍全体に広まったといわれている。
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