17世紀:探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:18 UTC 版)
「フランス領ルイジアナ」の記事における「17世紀:探検」の解説
1660年、フランスは現在のカナダ東部から北アメリカでの拡張政策を開始した。その目的は中国(清)への北西経路を開拓し、毛皮や鉱物資源のような領土内の自然資源を開発し、および先住民をキリスト教徒に改宗させることであった。毛皮交易業者が当時の「上部地方」(ケベックからみて上流の五大湖周辺)の探検を始めた。1659年、ピエール=エスプリ・ラディッソンとメダール・シュアール・デ・グロセイユールが、スペリオル湖の西端に到達した。1668年、聖職者がスーセントマリーのような使節団を派遣し、伝道所を作った。1673年5月17日、フランス人ルイ・ジョリエとジャック・マルケットがミシシッピ川の探検を始め、その川をSioux Tongo(大きな川)すなわちミシシッピ(オジブウェー語)と名づけた。二人はミシシッピ川の支流アーカンザス川の合流点まで辿りつき、そこから上流へ遡って、ミシシッピ川が期待していた太平洋にではなく、メキシコ湾に流れ込む川であることが分かった。1675年、マルケットはイリノイ川のカスカスキアの集落に伝道所を作り、1690年に恒久的なものとなった。 1682年、カブリエ・ド・ラ・サールとイタリア人アンリ・デ・トンティがミシシッピ川を下り河口の三角州に達した。2人は23名のフランス人と18名のインディアンと共にイリノイ川のクレブキュール砦を出発した。一行は後にテネシー州メンフィス市になる場所にプルドーム砦を建設し、フランス王ルイ14世に因んで名づけた「ルイジアナ」の渓谷全体にフランスの主権を主張することになった。また、カパウ族インディアンとの同盟条約にも調印した。1682年4月、ミシシッピ河口に到着した。この後ラ・サールはヴェルサイユに戻り、海事大臣を説得してルイジアナの支配権を認めさせた。ラ・サールはミシシッピ川が実際よりも西にあるような地図を描いてルイジアナがニュースペインに近いと主張した。ラ・サールは4隻の船を仕立て、320名の移民を乗せてルイジアナへ向けた航海に出た。不運にもラ・サールはミシシッピ三角州を見つけられず、テキサスの海岸に植民地を建設しようとした。ラ・サールは1687年にテキサスのナバソタ近くで自分の探検隊の一員に暗殺されたと記録されている。
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