黄祖とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 人名 > 三国志小事典 > 黄祖の意味・解説 

黄祖Huang Zu

コウソ
クワウソ

(?~208
漢江太守

劉表の将《破伝》。江夏太守

江夏太守として知られるが、いつごろ任命されたかは分からない司隷校尉黄琬江夏郡安陸の人だが、黄祖もその一族江夏の大姓だったのかも知れない

初平二年(一九一)、袁術意を受けた孫堅荊州攻撃してきたので、劉表将軍黄祖は樊城・鄧城で迎え撃った。黄祖が敗北すると、孫堅そのまま漢水渡って襄陽城を包囲した。黄祖は夜陰紛れて城外脱出し、兵を集めた孫堅待ち伏せのため帰城できず、峴山敗走した。このとき、樹木の影に隠れていた黄祖の部下が、後を追ってきた孫堅射殺した《破伝》。

黄祖は江夏太守となったが、孫策廬江太守劉勲と黄祖を攻撃し、黄祖らは敗れた孫策凱旋帰国する途中、たまたま劉繇死んだとの報を受け取り、軍を予章郡向けている《孫賁伝》。

曹操に逐われた禰衡劉表元にやってきた。黄祖の子黄射禰衡親しくなったので、彼を夏口に連れてきた。黄祖も彼の才能評価し客人が来たときはいつも同席させていた。しかし、黄祖の言葉俳優のように饒舌口調返答したので、罵倒されたと感じて立腹した黄祖は、部下命じて彼を殺害してしまった《荀彧伝》。

建安四年(一九九)、袁術遺臣たちが廬江太守劉勲元に身を寄せると、劉勲食糧調達のため海昏に兵を進めた孫策は黄祖討伐の軍を進めていたが、これを聞いて引き返し廬江皖城を攻め落とし劉勲撃破した劉勲西塞山の流沂城に籠城し、劉表・黄祖に来援求めた。黄祖は太子黄射水軍五千指揮させて劉勲助けさせたが、孫策西塞山襲撃し劉勲曹操身を寄せた聞くと、黄射逃げ帰ってきた孫策劉勲の兵二千軍船千艘を手に入れ夏口進軍して黄祖を攻撃した十二月十一日、劉表従子劉虎南陽韓晞指揮する矛部五千先鋒として戦ったが、孫策勢の周瑜呂範程普孫権韓当黄蓋らの一斉攻撃敗北劉虎韓晞は首を斬られ、黄祖は身一つ走り去った《討逆伝》。この戦いで孫策側でも徐琨失っている《孫権徐夫人伝》。

八年孫権が兵を進めてきた。黄祖の水軍敗れ孫権追撃は非常に厳しかったが、食客甘寧淩操射殺したので、逃げ延びることができた《甘寧伝》。黄祖が江夏城を守っているうち、背後混乱起こったため孫権撤退した《呉主伝》。黄祖は甘寧軽んじていたが、都督蘇飛推挙を納れて、甘寧を邾県長任じる甘寧伝》。

十一年、太子黄射部将鄧龍兵数千を与えて柴桑進出させた。柴桑には県長徐盛二百人しかいなかったが、彼らの猛反撃遭って千人余り負傷した。城を出てきた徐盛らと戦ったが《徐盛伝》、宮亭に駐屯していた周瑜駆け付けたので、鄧龍捕虜となってしまった《周瑜伝》。これ以後黄射の方から攻撃仕掛けことはなくなった《徐盛伝》。

十二年、孫権来襲して、領民連れ去っていった《呉主伝》。

十三年春、また孫権攻め寄せてきたので、黄祖は水軍出して侵入阻止しようとした《呉主伝》。水軍部将張碩が孫権軍先行部隊淩統に斬られた《淩統伝》。黄祖は二隻の蒙衝(軍船)を沔口に浮かべ船上の兵千人に弩を撃たせたので、孫権軍は進むことができなくなった。しかし淩統董襲らが矢のかいくぐって船に近付き、碇を切り落としたので船は流れてしまった《董襲伝》。黄祖軍先鋒水軍都督陳就呂蒙討たれ呂蒙伝》、淩統先頭立って攻撃掛けたので江夏城は陥落した淩統伝》。黄祖は陳就死んだ聞いて一人逃走していたが、追ってきた騎士馮則捕らえられ殺された《呉主伝》。

参照袁術 / 甘寧 / 韓晞 / 韓当 / 黄射 / 黄蓋 / 周瑜 / 徐琨 / 徐盛 / 孫堅 / 孫権 / 孫策 / 蘇飛 / 曹操 / 張碩 / 陳就 / 程普 / 禰衡 / 董襲 / 鄧龍 / 馮則 / 劉勲 / 劉虎 / 劉表 / 劉繇 / 呂範 / 呂蒙 / 淩操 / 淩統 / 夏口 / 海昬侯国海昏) / 晥県(皖県) / 漢水 / 宮亭 / 荊州 / 峴山 / 江夏郡 / 柴桑県 / 邾県 / 襄陽郡 / 西塞山 / 鄧県 / 南陽郡 / 樊城 / 沔口 / 予章郡 / 流沂城 / 廬江郡 / 騎士 / 県長 / 太守 / 都督 / 蒙衝


黄祖

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/05 02:16 UTC 版)

姓名 黄祖
時代 後漢時代
生没年 没年:208年
字・別号 〔不詳〕
本貫・出身地等 〔不詳〕
職官 江夏太守
爵位・号等 -
陣営・所属等 劉表
家族・一族 子:黄射

黄 祖(こう そ、? - 208年)は、中国後漢末期の武将。孫一族と長きに渡って抗争を続けた。子は黄射

生涯

劉表配下の大将。江夏太守であるが、任命時期は記録がない。建安4年(199年)当時、息子の黄射は章陵太守の地位にあった。父子で同時期に荊州内2郡の太守を務めていたことになり、劉表の軍閥において黄祖が高い地位にあったと推測される。

191年、袁術の命令で荊州に侵攻してきた孫堅を迎撃し、部下の呂公が孫堅を射殺した(襄陽の戦い)。

198年、黄射が連れてきた名士の禰衡を殺害した。禰衡は黄祖に厚遇されていたが次第に傲慢になり、黄祖を馬鹿にするようになったためと言われる。

199年孫策と交戦した隣郡の廬江太守・劉勲の救援要請に応じ、黄射に水軍五千を与えて派遣したが、劉勲が兵を捨てて曹操に帰順したので黄射は帰還した。劉勲の兵を吸収した孫策が夏口に進軍すると、劉表は劉虎韓晞ら五千を援軍に派遣したが、周瑜らの攻撃の前に大敗し黄祖は身一つで逃亡した。

203年孫権に敗北して撤退した際、食客の甘寧凌操を射殺した。しかし黄祖は甘寧を軽視しており、都督蘇飛の計らいによって甘寧は孫権の下に亡命した。

また、孫氏とのある戦いで徐琨を戦死させている。

208年春、再び孫権が来襲し、先鋒凌統の猛攻によって夏口は陥落した。黄祖配下の水軍都督陳就呂蒙に斬首され、陳就の死を知った黄祖は身一つで逃亡したが、孫権配下の騎兵である馮則に討ち取られた。

小説『三国志演義』では、孫堅が戦死したことで蔡瑁蒯越らと襄陽から打って出て孫堅軍と乱戦となるが、孫堅軍の黄蓋と出くわして生け捕りにされる。その後、劉表側に回収された孫堅の遺体と交換の形で解放される。最期は、元部下の甘寧に斬られた(史実では甘寧は孫権に進言はしたが、従軍したかどうかは不明)。

親族

配下

三国志演義』でのみの配下

黄祖(こうそ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:45 UTC 版)

まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の記事における「黄祖(こうそ)」の解説

孫策達の父孫堅暗殺した人物伊達男装っているが、長年逃亡生活ですっかり気弱になってしまう。

※この「黄祖(こうそ)」の解説は、「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の解説の一部です。
「黄祖(こうそ)」を含む「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の記事については、「まじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「黄祖」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黄祖」の関連用語

黄祖のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黄祖のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
むじん書院むじん書院
Copyright (C) 2025 mujin. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの黄祖 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのまじかる無双天使 突き刺せ!! 呂布子ちゃん (改訂履歴)、三国志 (横山光輝の漫画) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS