黄禍と大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/13 23:37 UTC 版)
一方で銭村が移民した1900年代は黄禍論が沸き起こり日系人移民への差別感情が高まり、1913年カリフォルニア州外国人土地法や1924年排日移民法などの法律も成立する。そこへ、第二次世界大戦(太平洋戦争)が勃発、排日運動も活発となった。この頃、銭村は車の販売業を興していた。銭村の家族は、日本とつながりの強かった健一郎がスパイとして疑われるのではないかと思い、家中にあった日本に関する写真やおもちゃを急いで焼いたという。 そして日系人の強制収容が始まる。妻と次男健三と三男健四の4人(長男健次は後述)はまずフレズノ広場で一時的に、のちアリゾナ州フェニックスのヒラリバー戦争移住センターに住むことになった。 健三の証言によると、ある日健一郎・健三・健四の3人は廃材を燃やし暖を取っていたところ、荒野を眺めていた健一郎がいきなり「球場を作るぞ」と言ったという。こうして銭村親子は収容所内で野球場を作ろうとしたが、アメリカ政府側は奨励しておらず収容所内では許可しなかったため、収容所近郊に自分たちの手で造ることになった。3人で始まった球場作りに、次々と収容所内の男たちが手伝い始めた。アリゾナの荒野の上に、外野フェンス代わりにトウゴマの低木を植えたり、その木や外野用の芝生に散水するため収容所内の洗濯室から300フィート(約91.4m)の用水路を整備し、ライン用石灰の代わりに小麦粉を用いたり、と工夫をこらし、1943年3月野球場「ゼニムラ・フィールド」を建設した。 こけら落としの始球式は収容所の白人所長が務めた。ここに収容所の人たちを野球に誘い、未経験者も含め彼らを指導した。その後収容所内で野球チームは32も作られ、リーグ戦も開催された。健一郎が収容所にかけあい、白人チームとも対戦も実現した。これら一連の出来事は収容所内の日系人コミュニティの希望の一つとなった。当時同じ収容所にいたパット・モリタはコメントを残している。 (He) showed that with effort and persistence, you can overcome the harshness of adversity … Zenimura and others created a fraternal community in the desert—and baseball was the glue.
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