鶴岡監督時代
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「福岡ソフトバンクホークス」の記事における「鶴岡監督時代」の解説
1946年、プロ野球が8球団によって再開されリーグに復帰。球団名をグレートリングに改称した。愛称は近畿で、近畿グレートリングと呼ばれることもあった(詳細については球団愛称節を参照。また、当時のプロ野球における愛称面全般については日本野球連盟 (プロ野球)#1946年の球団愛称を参照)。最終戦まで優勝争いとなり、11月5日に巨人がセネタースに負けたことにより、球団初優勝。最終的に2位の巨人とは1ゲーム差となった。 1947年6月1日、旧南海鉄道の事業一切が近畿日本鉄道から南海電気鉄道へ譲渡され、球団の親会社も南海電気鉄道へ移行。これにあわせて球団名を南海ホークスに改称した。この年チームは59勝を挙げているが、そのうち半数の30勝が別所によるもので、打線は機動力はすぐれていたが、選手兼任監督山本一人以下21名という少数精鋭の欠点が目立ち、別所が上位に勝った翌日に下位に負けることが多く、5月5日時点で首位の中日から0.5ゲームとしていたが、6月以降は首位の大阪に離されて、最終的に19ゲーム差の8球団中3位となる。 1948年、前年の少数精鋭を補うべく、シベリアから復員した柚木進や木塚忠助などを補強しシーズンに臨む。中谷信夫が開幕から12連勝。11月8日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、2年ぶり2度目の優勝、2位の巨人に5ゲーム差をつける。オフ、エースの別所が読売ジャイアンツに引き抜かれる事件が発生した。詳細は別所引き抜き事件を参照。1949年、勝率5割で首位の巨人から18.5ゲーム差の8球団中4位に終わる。シーズンオフの2リーグ分立でパシフィック・リーグに加盟。
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