馬場の変化から並木の公道化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 05:52 UTC 版)
「馬場大門のケヤキ並木」の記事における「馬場の変化から並木の公道化」の解説
江戸時代初期から中期にかけて、東馬場、西馬場の馬市は江戸幕府の保護下にあった。毎年の馬市のたびに、幕府は御厩方の役人を府中に派遣し馬を買い上げた。この恒例行事を「府中御馬御買上げの儀」と呼ぶ。幕府の保護の下、大名、旗本、御家人が盛んに府中馬市へ馬を求めたという。 この馬場の状況が1722年(享保7年)に一変する。1722年、「御馬御買上げの儀」は江戸城西ノ丸下で開催されることになり、府中馬市への幕府の保護が終焉した。平和になり軍馬の需要が落ち込んだこと、江戸の都市化が進み浅草藪の内や麻布十番に馬市が立ったため府中まで出向いて馬を購入する意義が失われたことが背景にあると考えられている。その後有志の申し合わせにより、1859年(安政5年)までに3度の馬市再興が試みられたが、1859年以降、馬市が立つことはなくなった。 馬市が立たなくなると、馬場は馬市以外の用途に利用されるようになった。六所宮神主猿渡盛房が記した1804年(文化元年)の日記には、府中新宿の名主民八が商売のために所望した東馬場の東南角を借地した記録が残っている。民八は六所宮に対し「甲州街道は込み合っているが、馬場尻は無用の土地なので拝借したい(意訳)」と頼んでいる。また、この日記に描かれた地図を見ると東馬場の東南角がごみ捨て場と化していることが読み取れる。 また、行事等に供するための馬場の短期借用も何度か行われている。1848年(弘化5年)には相撲興行の期間、小屋掛けの土地として馬場を貸し出している。また、1847年にも馬場すぐ横に所在した称名寺のために東西の馬場を貸し出している。 江戸時代が終わり、明治時代になると馬場は大門とともに新たな幹線道路としての性格を持ち始める。もともと、府中付近の人の流れは甲州街道沿いにあり、六所宮の付近が一番にぎやかであった。『甲州街道分間延絵図』には、六所宮から馬場大門を北上し、一ノ鳥居を越えると、その先は細い野道が続く様が描かれている。 1889年に甲武鉄道が開通し国分寺駅が開設されると、人の流れが国分寺駅へ向くようになる。先立つ1871年、明治新政府の指導により馬場大門は新政府に上地され、国有地となった。以降、馬場大門は並木のある公道としての性質を強めてゆく。府中から国分寺駅へ向かう道には当初、東馬場が当てられた。西馬場は並木の根の張り出しが多く使用されなかったと伝わる。後に馬場中道(大門)のくぼみが埋められ、馬場大門は乗合馬車の通れる幹線道となった。1916年、京王電気軌道が馬場大門のすぐ東側まで開通し、府中駅が開設され、1920年には馬場大門を含む国分寺駅へ通じる道が東京府道80号府中国分寺停車場線(現在の東京都道133号小川山府中線)に指定された。
※この「馬場の変化から並木の公道化」の解説は、「馬場大門のケヤキ並木」の解説の一部です。
「馬場の変化から並木の公道化」を含む「馬場大門のケヤキ並木」の記事については、「馬場大門のケヤキ並木」の概要を参照ください。
- 馬場の変化から並木の公道化のページへのリンク