香港の蛋民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 14:43 UTC 版)
「鹹水蛋民」と呼ばれる、東莞周辺から移動して来た人たちが多数派を占める。広東語の下位方言のひとつである「蛋家話」を話す。広州や香港の広東語との発音の差異は小さく、会話に大きな支障はない。「香港」という語は、広州の広東語ではヒョンコン(Heunggong)のように発音するが、英語で「Hong Kong」と綴るのは、香港の蛋民の広東語の発音に基づくためといわれる。実際に香港で「eu」の綴りで表されている円唇前舌半広母音の一部は、蛋家では「o」で表される円唇後舌半狭母音に交替している場合がある。(例:「脚」 香港・広州 geuk3:蛋家 gok3)しかし、地区によっては交替していなかったり、逆に「o」から「eu」に交替している例もあり、法則性は見出せない。 香港には台風が多いため、毎年多くの船が港に避難していても台風によって転覆し、死亡する例が続出した。特に1906年の被害は甚大で、政府は1910年代に油麻地と銅鑼湾に「避風塘」という、防波堤に囲まれた避難地域を設けた。この避風塘には水上生活をする人たちの船が密集し、「水上浮城」という形容もなされた。日用品や食料などの販売をする船も多数現れた。 1940年代初頭には人口164万人の香港で15万人を超える蛋民がいたと推定されている。第二次世界大戦後の1945年から中華人民共和国が誕生した1949年の混乱期には、中国沿岸部から香港に集まる船が増え、総数はさらに膨らんだといわれるが、この時期の具体統計は残されていない。1950年代、戦後の混乱が落ち着くと、料理船や芸能を見せる船も営業を始めるようになり、一般市民も夜に舟遊びに出かけるようになった。当時、油麻地は蛋民が買い物をしたり、医療を受けたりする地区として繁盛した。 香港では、1970年代より、陸上生活を送れるように政府に支援を求める声が高まり、屯門、沙田などに建設された大規模公共住宅への入居が進むようになり、水上生活者は減少を続けた。1980年に、香港政府が中国大陸からの移民を制限する政策を打ち出すと、中国大陸の漁民の女性と結婚した水上居民は、陸上生活をすると妻が不法滞在者とみなされるため、政府に居住許可の請願を出す例もあったが、例外は認められなかった。この頃より、油麻地沿岸の埋め立て(現在の西九龍地区)や香港島周辺の埋め立ても始まり、生活基盤となる海も大変化を見せ、1990年代には油麻地、銅鑼湾から水上居民の姿は消えた。
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