首脳会談の挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 13:58 UTC 版)
9月27日、日本側はドイツとの関係に誤解を生じる犠牲を払っても日米首脳会議を行いたいと打電し、輸送の船舶と随員も決定済みで、時期は10月10日または10月15日が好都合と提案した。しかし、10月2日のハル国務長官より手交された回答は原則論を崩さないもので、日米両政府があらかじめ了解に達していない以上、首脳会談は危険であるとして実質的に拒否した。これを受け野村は日本政府はさぞかし失望するであろうと述べて引き取り、「日米交渉は遂にデッド・ロックとなりたる観あるも打開の道は必ずしも絶無でもなかろう」と状況報告せざるを得なかった。 日米首脳会談について、豊田外相は「行けば必ずやりとげる積りで(中国からの)撤兵の件も何も出先で決めて御裁可を仰ぐ覚悟であった」と回想しており、海軍省の岡軍務局長は「近衛がルーズベルトに会ってしまえばその場で始末をつけるだろうから、ともかく行けばなんとかなるだろう」との考えであった。 アメリカ側では、近衛首相や豊田から首脳会談開催への尽力を依頼されたグルー駐日大使が、日米の危機を回避できる機会だとして、ハルおよび国務省に具申を重ねていた。しかし、グルーの進言はほぼ相手にされず、影響力を持ったのは国務省政治顧問スタンレー・ホーンベックの進言であった。ホーンベックは首脳会談に強く反対しており、「たとえ会談が開かれたとしても、近衛公はなにもできないか、まったくぼんやりしたコミットメントしかできないであろう」と見ていた。ホーンベックの対日認識は、日本は4年にわたる支那事変で消耗している、日本のリーダーたちは仲間争いをして不安定であることを理由に「日本に関しては危険はない」というものであった。そして、日本に対して経済的、軍事的な圧力を加える力の外交を続ければ「時をかせぐ最良の機会となり、太平洋の領域に交戦状態を拡散させることを防ぐ最良の可能性を持っており、それは結局三国同盟の崩壊を期待できる」「短期的にも長期的にも戦争への可能性は減るであろう」との持論を展開していた。 ハルもまた首脳会談は第二のミュンヘン会談になるとして反対の立場であり、当初は乗り気を見せたルーズベルト大統領もハルの助言を取り入れたという 。
※この「首脳会談の挫折」の解説は、「日米交渉」の解説の一部です。
「首脳会談の挫折」を含む「日米交渉」の記事については、「日米交渉」の概要を参照ください。
- 首脳会談の挫折のページへのリンク