首脳会談の議題
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この打診を受けて、5月9日にケネディからウイーンでの首脳会談開催を提案する旨の回答があり、1961年6月3日から4日にウイーンで会談を行うことが決定した。 この時に双方の会談に臨む姿勢にはかなりの隔たりがあり、特に会談の内容については米ソ間には大きな違いがあった。キューバとラオスで行き詰まり、事態が期待通りに進んでいない状態であったアメリカは、当時進行していたラオス紛争で翌週にジュネーヴ会議を控えて内戦の終結と中立化をめざしてソ連側の協力を求めた。また核実験禁止について会談での好意的反応を期待していたが、直後に出す公的声明ではベルリン問題には一切言及しないようソ連側に伝えた。 一方ソ連は、東西ドイツの問題について、まず西側に東ドイツとの平和条約の締結を求め、それが実現できない場合もソ連が単独で東ドイツと平和条約を結び、西ベルリンへの全てのアクセスルートの管理権を東ドイツに移譲する案を持っていた。5月27日の共産党幹部会でフルシチョフから説明があり「我々は西ベルリンへ侵入しない。封鎖を宣言しない。だから軍事行動のための口実を与えることはない。」「我々は軍隊の撤収を要求しない。排除することもしない。しかしそれらは違法であることと考える。」「だから戦争状態と占領体制が終結するからといって戦争を引き起こすことではない。」と語った。しかしミコヤン第一副首相だけが異論を出して「彼らが核兵器なしで軍事行動に出るかもしれない。」と述べるとフルシチョフは「ケネディはひどく戦争を恐れているから、軍事的に反応してくることはない。…ベルリンに関しては我が方の軍事的優位に疑問の余地はない。」と答え、するとミコヤンは「ケネディを軍事的対応するしかない危険な立場に追い込んでいる。ベルリンの空路はこれまで通りにしてケネディに受け入れやすいものにしたら…。」と尋ねるとフルシチョフは「東ドイツは崩壊寸前なのだ。確固たる行動を取らなければ東側諸国に疑念を生じさせてしまう。…西側の飛行機が西ベルリンに着陸しようとすれば撃墜するつもりだ。」と反駁した。フルシチョフにとっては何としても西ベルリン問題で一定の前進を期待していた。 ケネディにとってはあくまで重要な交渉の場ではなく、首脳同士の個人的接触を深めフルシチョフの真意を見極める場であった。そしてアメリカの立場は一歩も引かず、事態が悪化すれば実力行使を考えざるを得ないことも警告する場でもあった。
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