風雅和歌集への道
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正和4年12月28日(1316年1月23日)、鎌倉から上京した東使である安東重綱に率いられた六波羅の兵士数百名が京極為兼を逮捕した。為兼の逮捕を見て、二条為世の門弟たちは和歌の邪議を広めたからであると批判したが、罪状は和歌とは基本的に関係はなく、為兼が政治への過度の介入を続けたことが問題視されたものであった。為兼は翌月には土佐国へ流罪となり、流罪を前に、和歌に関する多くの文書を花園天皇に託していった。 伏見法皇の股肱の臣である京極為兼が、再び逮捕、そして流罪となったことは持明院統にとって大きな打撃となった。その上、為兼の過度の政治介入を抑制しなかったと見なされた伏見法皇は幕府に対して弁明に努める中、体調を崩していき、文保元年9月3日(1317年10月8日)崩御した。権臣為兼の失脚そして遠流に加え、持明院統の中核であった伏見法皇の崩御によって、京都の政界地図は一気に大覚寺統有利となっていった。文保2年(1318年)2月、花園天皇は譲位して皇太子尊治親王が践祚し、大覚寺統の世となった。しかも今回は皇太子も後二条天皇の皇子邦良親王と大覚寺統から選ばれ、持明院統は極めて不利な立場に追いやられた。 京極為兼は学究肌の花園天皇と親しく、花園天皇も為兼の歌風を正道として生涯支持し続けた。また永福門院が京極派の和歌、そして逼塞状態の持明院統の支えとなった。大覚寺統の世になって元応2年(1320年)二条為世が撰者となった続千載和歌集撰集の際、為世が永福門院の和歌を改作したことに怒り、続く正中2年(1325年)、二条為定撰の続後拾遺和歌集撰集の際には、亡夫伏見天皇が夢枕に出て「一首も歌を提出すべきではない」と戒めたと語った。その結果、続後拾遺和歌集内に京極派歌人の和歌は極めて少ない。 そのような中、後醍醐天皇が倒幕計画を疑われた正中の変が起こり、大覚寺統の立場が悪くなるのに比して持明院統の立場は改善してきた。正中3年(1326年)3月、皇太子邦良親王が薨じ、持明院統の量仁親王が皇太子となった。花園上皇は持明院統の次世代を担うことになる甥の量仁親王の教育に心血を注ぎ、花園上皇を通じて京極派の歌風は量仁親王に伝えられた。 その後、世は元弘の乱、鎌倉幕府の滅亡、建武の新政、そして南北朝の分裂と、激動の時代を迎えた。その中で情勢がやや落ち着いていた貞和2年(興国7年、1346年)、京極為兼の創始した京極派の歌風を守り続けた花園法皇監修、光厳上皇親撰により、風雅和歌集が編纂された。風雅集は心の絶対的尊重、言葉の完全な自由化という京極為兼の主張をしっかり守り育ててきた京極派和歌の成果であった。 風雅和歌集は京極派和歌の集大成と評価される和歌集であり、京極派の勅撰和歌集である玉葉和歌集、風雅和歌集は「玉葉風雅」と、一体のものとして評価されるようになった。
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