風雅和歌集への道とは? わかりやすく解説

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風雅和歌集への道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:09 UTC 版)

玉葉和歌集」の記事における「風雅和歌集への道」の解説

正和4年12月28日1316年1月23日)、鎌倉から上京した東使である安東重綱に率いられ六波羅兵士数百名が京極為兼逮捕した。為兼の逮捕見て二条為世門弟たちは和歌の邪議を広めたからであると批判したが、罪状和歌とは基本的に関係はなく、為兼が政治への過度介入続けたことが問題視されたものであった。為兼は翌月には土佐国流罪となり、流罪前に和歌に関する多く文書花園天皇託していった。 伏見法皇股肱の臣である京極為兼が、再び逮捕、そして流罪となったことは持明院統にとって大きな打撃となった。その上、為兼の過度政治介入抑制しなかったと見なされた伏見法皇幕府に対して弁明努める中、体調崩していき、文保元年9月3日1317年10月8日崩御した。権臣為兼の失脚そして遠流加え持明院統中核であった伏見法皇崩御によって、京都政界地図一気大覚寺統有利となっていった。文保2年1318年2月花園天皇譲位し皇太子尊治親王践祚し、大覚寺統の世となった。しかも今回皇太子後二条天皇皇子邦良親王大覚寺統から選ばれ持明院統極めて不利な立場追いやられた京極為兼学究肌花園天皇親しく花園天皇も為兼の歌風正道として生涯支持し続けた。また永福門院京極派和歌、そして逼塞状態の持明院統支えとなった大覚寺統世になって元応2年1320年二条為世撰者となった続千載和歌集撰集の際、為世が永福門院和歌改作したことに怒り、続く正中2年1325年)、二条為定撰の続後拾遺和歌集撰集の際には、亡夫伏見天皇夢枕出て一首も歌を提出すべきではない」と戒めた語ったその結果続後拾遺和歌集内に京極派歌人和歌極めて少ない。 そのような中、後醍醐天皇倒幕計画疑われ正中の変起こり大覚寺統立場悪くなるのに比して持明院統立場改善してきた。正中3年1326年3月皇太子邦良親王じ、持明院統量仁親王皇太子となった花園上皇持明院統次世代を担うことになる甥の量仁親王教育心血注ぎ花園上皇通じて京極派歌風量仁親王伝えられた。 その後、世は元弘の乱鎌倉幕府の滅亡建武の新政、そして南北朝分裂と、激動の時代迎えたその中で情勢がやや落ち着いていた貞和2年興国7年1346年)、京極為兼創始した京極派歌風守り続けた花園法皇監修光厳上皇親撰により、風雅和歌集編纂された。風雅集は心の絶対的尊重言葉の完全な自由化という京極為兼主張をしっかり守り育ててきた京極派和歌成果であった風雅和歌集京極派和歌集大成評価される和歌集であり、京極派勅撰和歌集である玉葉和歌集風雅和歌集は「玉葉風雅」と、一体のものとして評価されるようになった

※この「風雅和歌集への道」の解説は、「玉葉和歌集」の解説の一部です。
「風雅和歌集への道」を含む「玉葉和歌集」の記事については、「玉葉和歌集」の概要を参照ください。

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