風雅の道と普請道楽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)
趣味は和歌を詠むことであり、生涯に数万首の和歌を読んでいる。また漢詩、仕舞、書を好んだ。石上神宮の楼門に掲げられる「萬古猶新」の木額も山縣の揮毫による。茶人として、また普請道楽、造園好きとしても知られる。 東京の椿山荘、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、山縣が自ら想を練り岩本勝五郎や近代庭園の先覚者として知られる7代目小川治兵衛をはして築かせたものである。これらは山縣の好みに従った自然を活かした構成であり、伝統的な日本庭園とは一線を画す近代主義的・自然主義的日本庭園とも言えるもので(#邸宅・記念館も参照)、「明治期の新庭園が打ち出した特色は、山縣有朋の造園感覚そのものである」とまで言われており、携わった小川治兵衛自身の造園手法にも影響を与えたとされる。御所の庭園を除けば無鄰菴は京都随一のものと密かに信じている旨を明治天皇に奏上し、松の若木を下賜されている。山縣はこれを記念して「御賜稚松乃記」の碑を建立している。明治34年にその松が成長した姿を写した写真を天皇に奉じて「おくりにし若木のまつのしげりあひて老の千とせの友とならむ」との御製を下賜され、「おひしげれ松よ小松よ大君のめぐみの露のかかるいほりに」「みめぐみの深きみどりの松かげに老もわすれて千代やへなまし」と返歌を詠じている。 松井広吉 「和歌漢詩ともに妙で、前者には通泰博士を師として名作も多いといわれる。書も骨立ながら気品犯しがたいものがある。武骨人のようだが、謡曲や仕舞以外に、清元の咽は勿論、その方の鑑識も高いという。公を一介の武弁謹直人に止まるとするのは、全くその韻趣を解せぬ垣のぞきといわざるを得ぬ」 山縣三名園 椿山荘庭園 - 1万8,000坪。富士山、筑波山、房総の山々を見渡す広大な庭。 無鄰菴庭園 - 3,100平方メートル(約940坪) 古希庵庭園 - 1万坪
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