音楽家活動初期
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「ヴァルグ・ヴィーケネス」の記事における「音楽家活動初期」の解説
「バーズム」も参照 ヴィーケネスは、14歳からギターを弾き始める。1987年には学校を中退。1988年にカラシニコフ ( Kalashnikov)というバンドを結成。このバンド名は、ヴィーケネスの好きなアサルトライフル・AK-47の愛称(設計者のファミリーネーム)に由来する。それから間もなく、バンド名をウルク=ハイ (Uruk-Hai)に変更。Uruk-Haiというバンド名は、指輪物語の登場人物から採られている。このバンドでは目立った活動はなく、徐々にリハーサルすら行わなくなっていった。 17歳の頃に、ヴィーケネスはベルゲンのデスメタルバンド・オールド・フューネラル(英語版)のメンバーと連絡を取るようになる。これがきっかけで、オールド・フューネラルのオルヴェと元オールド・フューネラルのハーラルと共にサタネル (Satanel)を結成。サタネルは数週間で解散してしまったが、これをきっかけに、オールド・フューネラルにサポート・ギタリストを経て正式加入。1991年までは、オールド・フューネラルでギタリストとして活動し、EP『Devoured Caracass』に参加している。 更に1989年には、メイヘムのギタリスト、オイスタイン・オーシェト(後にユーロニモスと名乗るようになる)と知り合っている。この出会いがきっかけで、ノルウェーのアンダーグラウンド・ミュージックシーンと関わり合いを持つようになった。 オールド・フューネラル脱退後、ウルク=ハイをバーズム (Burzum)に改名し活動を本格化する。バーズムの活動に伴い、ノルウェーの初期ブラックメタルシーンと密接な関係を急速に築き上げた。2枚のデモをリリース。その後、ユーロニモスが立ち上げたデスライク・サイレンス・プロダクションと契約。この頃から、Burzumの活動においては、カウント・グリシュナック(Count Grishnackh)と名乗るようになる。1992年から1993年の間に、バーズムとしてアルバム4枚分の楽曲をレコーディングするなど、かなり精力的な活動を行っている。 ヴィーケネスは、バーズムの初期の楽曲のレコーディングする際、1987年に知人から購入した古いウエストン(英語版)のエレクトリック・ギターを使用していた。エレクトリックベースは、楽器店で最も安いのを使用し、ドラムセットはオールド・フューネラルやイモータル、「近所に住んでいた別のミュージシャン」から借りて使用した。バーズムの3rdアルバム『Hvis Lyset Tar Oss』のレコーディングでは、ヘルハマーがメイヘムの1stアルバム『De Mysteriis Dom Sathanas』のレコーディングで使用したものを借りて使用している。また、ヴィーケネスはピーヴィー(英語版)のアンプを使用していたが、バーズムの4thアルバム『Filosofem』では、彼の兄弟のステレオのアンプと古いエフェクターを使用している。ボーカルに関していえば、ヴィーケネスは渡されたものであればどんなマイクでも使用した。しかし、『Filosofem』のレコーディングでは、ヴィーケネスは彼らの持っているものの中で、最も粗悪なマイクを意図的に使用している。バーズムの楽曲「Dungeons of Darkness」(1stアルバム『Burzum』)においては、ヴィーケネスは、背景音のノイズのためにグリーグホールの大きな銅鑼を使用している。ちなみに、この銅鑼を打つ際には、ユーロニモスが補助している。 1992年にヴィーケネスは、前年4月8日にメンバーのデッドが自殺したメイヘムにサポートとして加入している。ちなみにヴィーケネスは、デッドが自殺に使用するショットガンの弾丸数発を自殺の数か月前にデッドに送っている。
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