音楽・映画評論、庶民文化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 01:20 UTC 版)
「ロベール・デスノス」の記事における「音楽・映画評論、庶民文化」の解説
デスノスは以後、音楽評論、映画評論を多く書くようになり、また、詩作は続けていたものの、その傾向は生まれ育った下町の文化や民衆言語への関心に基づく、より庶民的なものへと変わっていった。 1928年のキューバ旅行は一つの転機とあった。ルンバのようなパリでは馴染みのない音楽(リズム、音)に惹かれ、また、アレホ・カルペンティエルと出会ったことで政治への関心を深めた。カルペンティエルは同年、フランスに亡命し、以後、活動を共にすることになる。 デスノスが1926年から1927年にかけて書いた550行の長詩『愛なき夜ごとの夜』は、音楽的な要素の強い抒情詩であり、1930年にアンヴェールで刊行されたが、販売はせず、1942年の『財産』に収められることになるが、この詩の一部にイヴ・モンタンが曲を付けて歌っている。また、アルテュール・オネゲルやアンリ・クリケ=プレイエル(フランス語版)の映画音楽の歌詞も書いている。 1929年の世界恐慌の影響で、デスノスは生計を立てるためにジャーナリズムにますます深く関わるようになった。藤田嗣治の妻で、彼が「薔薇色の雪」のような肌からユキと名付けたリュシー・バドゥに出会い、1931年から生活を共にすることになった。1934年に、二人はパリ6区マザラン通り(フランス語版)19番地に越し、1944年にデスノスがゲシュタポに逮捕されるまで共に暮らした。ここで毎週土曜の「マザラン通りの土曜の会」と呼ばれた集まりには多くの作家や芸術家が参加した。当時パリに住んでいたヘミングウェイ(アメリカ)やカルペンティエル(キューバ)が招かれたほか、ミゲル・アンヘル・アストゥリアス(グアテマラ)、(エメ・セゼール、レオポール・セダール・サンゴールとともにネグリチュードの運動を率いた)レオン=ゴントラン・ダマス(フランス語版)(フランス領ギアナ)など当時まだほとんど無名であった外国人作家らとも親しく、レリスは、デスノスは「普遍主義的精神」の持ち主であったと語っている。
※この「音楽・映画評論、庶民文化」の解説は、「ロベール・デスノス」の解説の一部です。
「音楽・映画評論、庶民文化」を含む「ロベール・デスノス」の記事については、「ロベール・デスノス」の概要を参照ください。
- 音楽・映画評論、庶民文化のページへのリンク