革命の国外に対する影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 07:17 UTC 版)
「イラン革命」の記事における「革命の国外に対する影響」の解説
イスラム共和国体制は、アメリカ合衆国連邦政府が背後から支援して樹立したパフラヴィー朝を打倒したので、アメリカ合衆国から敵視された。 1979年11月には、イランアメリカ大使館人質事件が起こり、アメリカは1980年4月にイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。またパフラヴィー朝が西側諸国に発注していた兵器の開発・購入計画が全てキャンセルされた事で、イギリスのシール(チャレンジャー1)戦車やアメリカのキッド級ミサイル駆逐艦など、多くの西側諸国の兵器開発に影響を及ぼす事になった。一方で、イスラエルはキャンセルされたF-16戦闘機を代わりに購入する事で、イラク原子炉への爆撃(バビロン作戦)が遂行可能になった。 一方、サウジアラビアなどの周辺のアラブ諸国にとって、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせることになった。 1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。また、戦争は国際化し、ニカラグアの内戦(コントラ戦争)から波及したイラン・コントラ事件などを巻き起こした。 また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻は、ソ連がイスラム革命のアフガニスタンへの波及を防ぎたいと考えたのも要因とされている。 革命当初、欧米ではイラン・イスラム共和国体制を短命であると見ていた程西欧にとって革命とその体制は信じがたい衝撃で、体制が何年にも渡って継続するとはまるで予想していなかった。しかし、40年以上この革命体制は欧米の激しい干渉にさらされながらも継続している。
※この「革命の国外に対する影響」の解説は、「イラン革命」の解説の一部です。
「革命の国外に対する影響」を含む「イラン革命」の記事については、「イラン革命」の概要を参照ください。
- 革命の国外に対する影響のページへのリンク