革命の中央機関として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 03:30 UTC 版)
「公安委員会 (フランス革命)」の記事における「革命の中央機関として」の解説
1792年、8月10日の革命によって立憲王政が停止したことから、フランスには、従来、執行権を持っていた国王存在と内閣制度に代わる中央機関が必要となった。8月15日、このために立法議会は暫定的に議員以外から6人を選任して大臣とし、彼らで構成される臨時行政会議 (fr:Conseil exécutif provisoire) を設置した。新たに招集された国民公会も同様の決定を行い、数ヶ月間、暫定的な行政府として機能した。国王存在が憲法上保持していた執行権は、革命独裁を宣言した国民公会が持つことになったが、公会は議会であるため、事が起こるたびに逐次議論して決定していては、緊急時の対応は難しいという欠点があった。 1792年末、ベルギー征服によって隣接するイギリスとの外交関係が悪化して開戦が不可避となると、その対策として翌年1月1日に総防衛委員会 (fr:Comité de défense générale) が提起され、創設された。これは軍事関係の諸委員会から3名ずつ委員を出して構成されるもので、各大臣と公会との連絡を密にする臨時行政会議を拡大したような組織であった。しかし委員のほとんどはジロンド派で占められ、彼らが敵対する山岳派との党派争いや討論に時間を費やすばかりで具体的な活動ができなかったことから、3月、同盟軍の攻勢があると戦争指導の失敗に対して非難が集中した。これを受けて同委員バレール (fr:Bertrand Barère de Vieuzac) の提案で、より強力な委員会へと改変されることになり、3月23日、25名に増員され、防衛に必要なあらゆる法律と手段の準備を任務とした、後の公安委員会の原型となるものが誕生する。新しくなった委員会は、やはり国防委員会という名称であったが、対立する各派閥が共に集う大連立政権となった。ところがこの大所帯が逆に仇となり、公開の討議であったために議論百出して論争の場と化すばかりで何も決まらず、再び機能不全に陥った。 4月2日、デュムーリエ (fr:Charles-François Dumouriez) 将軍の裏切りが明らかになり、戦争大臣、国防委員2名と派遣議員(ブールノンヴィル (fr:Beurnonville) 、カミュとキネット、およびラマルク)も捕虜になって、前線が大混乱した。同時に国内でもヴァンデの反乱が激化していたため、無力な国防委員会への批判は頂点に達した。3日、委員であったロベスピエールが脱退を示唆するに至り、同じく委員イスナール (fr:Maximin Isnard) によって解体と新委員会の設立の動議が出されて可決された。その後、協議があり、バレールとコンドルセによって修正された法案が1793年4月6日に再提出され、公安委員会として成立した。
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