青龍社とは? わかりやすく解説

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せいりゅう‐しゃ【青竜社】

読み方:せいりゅうしゃ

川端竜子(かわばたりゅうし)が昭和4年(1929)に創立した日本画団体。同41年竜子死により解散


青龍社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 21:17 UTC 版)

谷口富美枝」の記事における「青龍社」の解説

1910年東京生まれる。関東大震災被災し、翌1924年埼玉県浦和市(現・さいたま市)に転居上村松園あこがれて日本画家志し1931年女子美術専門学校日本画高等師範科を卒業1934年文化学院美術部専修科卒業女子美在学中1929年頃から日本画家川端龍子の青龍社に入門。同1929年9月第2回青龍社展」(東京府美術館)に《麦秋》を20歳若さ出品1934年第6回青龍社展」には、ドロップ工場働く女性たちを描いた《スヰート工場》等を出品。翌1935年「秋の青龍社展」には、身支度をする6人のモダンガール等身大描いた六曲一隻屏風《装ふ人々》を出品和装から洋装着替える姿に世相反映しつつ、日本女性清楚な美しさ描いたこの作品高く評価されY氏賞を受賞したまた、1936年「秋の青龍社展」に、モダンガール山荘寛ぐ《山の憩ひ》と、水着姿ビーチ散歩する《海の憩ひ》を出品し、再びY氏賞を受賞。「近代的な女性此処まで書き出す作品は少い」、「閨秀画家として画壇確固とした地位獲得した」と称賛された。 谷口モチーフとする若いモダンな女たちを「古い常識なんか蹴飛ばし新し生き方」を実行する「特殊の芸術人」とみなしていた。しかし、1937年勃発した日中戦争激化するにつれ、華やかな装い非難の的となっていった。

※この「青龍社」の解説は、「谷口富美枝」の解説の一部です。
「青龍社」を含む「谷口富美枝」の記事については、「谷口富美枝」の概要を参照ください。

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