青島爆撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 19:31 UTC 版)
1914年、海軍航空隊に所属していた和田は、フランス製モーリス・ファルマン水上機の操縦士として第一次世界大戦に参加している。搭乗したのは輸送船を改造した水上機母艦「若宮丸」で、70馬力(2人乗り)と100馬力(3人乗り)のファルマン機を各1機、解体した70馬力2機の計4機を搭載していた。 若宮は1914年8月23日に横浜を出港し、9月1日に膠州湾外に到着した。悪天候のため待機を余儀なくされ、ようやく5日に100馬力で3人乗りのファルマン機の操縦士として初出撃を行った。湾内には巡洋艦「カイゼリン・エリザベート」と駆逐艦「S90」、他小型砲艦を確認し、帰途で青島市の無電所を爆撃している。このとき、地上から激しい銃撃を受けてファルマン機の翼の小骨が折れ、翼布がはがれ始めたので、海面を這うように帰還した。9月6日、青島要塞の偵察に出撃。イルチス砲台を爆撃し、付近の兵舎から白煙があがるのを視認している。16日前後から爆撃の主目標をS90に置いたが、最後まで一発も命中しなかった。一度、8サンチ爆弾10発をもって狙ったが急旋回され、そばにいた水雷敷設艇を撃沈したのみであった。9、10月の二ヶ月間に49回の飛行を行い(1回約1時間半)、199発の爆弾(8サンチ、12サンチの二種)を投下した。そのうち命中したのは8発(無電所、発電所、兵舎、水雷敷設艇など)で、16発が不明となっている。11月23日、加藤定吉第二艦隊司令長官より感状を贈られている。 この爆撃は、機体に紐で吊った爆弾をその紐を切って落とす方法で行った。敵機に遭遇した場合は拳銃で撃墜するつもりであったという。一連の作戦行動は日本初の航空戦であった。
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