防衛拠点としての効果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 14:44 UTC 版)
12世紀から19世紀にかけて、武装した盗賊団が中国南部を跳梁した。福建省南部の人々は最初、防御の砦を山頂に建設した。こういった初期の砦が、のちに福建土楼へと進化した。 低部では2メートル、上へ行くほど細くなって1メートル、という厚みの土楼の外壁は、矢や銃撃にも耐えることができた。1から2メートルの厚みがある土楼外壁の低部は、しばしば花崗岩の角材や大きな玉石で造られた。花崗岩や玉石で造られた区画は掘削にも耐えることから、外観を目地仕上げにし、故意に外に配置した。そういった玉石を掘り出すことは、どのような攻撃者にも不可能なことであった。 玉石の区画は地下1メートル以上の深さにも広がっていたので、壁の下にトンネルを掘ることも不可能であった。 土壁部分は、石灰、砂、粘土を混ぜたものと押し固めた土とで造られ、水平に渡した割竹によって、横方向が補強された。これにより堅固な城となり、大砲の放火にさえ耐えることができた。1934年に永定県で、反乱農民の一団が土楼を占拠して、軍の横暴に抵抗しようとした。軍は土楼に大砲を19発撃ちこんだが、外壁には小さなへこみができただけだった。 壁で囲んで防御する場合、通常は門が弱点となる。しかし福建土楼の門は、防御のため特別な設計となっている。門の枠は、花崗岩の大きな角材で造られている。両開きの扉は、耐火性の固い木の板(厚み13センチ)で造られ、分厚い鉄製装甲板で補強された。大門の扉を閉ざす時には、水平・垂直方向ともに、頑丈な木の杭を数本、花崗岩に開けられた穴に差し込む仕組みになっていた。前の扉を破壊しようと敵が火を使う場合に備え、門の上には、敵のつけた火を消すための水槽が設置されていた。 福建土楼の居住者は、積極的防御には銃を使った。建物の最上階にある狭間から、銃撃した。福建土楼のいくつかは、内壁に沿って丸く通路が設置されており、武装した人々や弾薬の移動に便利であった。 承啓楼の狭間(銃窓) 敵に備えた銃
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