開墾事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 00:25 UTC 版)
北海道の開拓が海から内陸へと移って行ったことに伴い、藤山もまた、内陸部へと事業を拡大した。1896年に開墾事業を計画した。同年、留萌原野に300ヘクタールの藤山第一農場を開き、石川や富山など北陸地方から83戸の小作人を呼び入れた。それからわずか5年後の1901年には、国道用地以外の全地域の開墾に成功した。 このことから国鉄留萌線の開通時には、鉄道駅が藤山駅と命名された。後に留萌町が市制を敷いた際には、留萌市藤山町が発足した。 1901年(明治34年)には、勇払郡厚真村(後の厚真町)の約700ヘクタールの土地を譲り受け、開墾して藤山第二農場とした。1915年(大正4年)には上川郡美瑛村(後の美瑛町)に約500ヘクタール、1917年(大正6年)には枝幸郡松音知(後の中頓別町)に約600ヘクタールの農場を開いた。この他にも小樽、篠路、幌内、塩谷、忍路、蘭島など、北海道内の各地にも小規模の耕地を開拓した。 藤山が自家の巨大な資本をもとに農耕技術を改良したことで、生産額は年ごとに増加し、どの農場も北海道の模範的な農場となった。1946年(昭和21年)の農地改革に伴って独立した小作人は、千数百戸に達した。模範的な農場の小作人たちと藤山との間には、何の紛争もなかったという。 1896年には後志国塩谷村忍路(後の小樽市忍路)に土地を借り、カラマツを植樹した。一度は山火事のために大部分を焼失したものの、これに屈することなく後には全地積の植林を完成した。1910年(明治43年)にはこの地積すべての付与を受けて植林をし、その数は68万本に達した。同年は古宇郡泊村にも、44ヘクタールにわたっての植林を行なった。 1909年(明治42年)、留萌の藤山第一農場に隣接した字留萌ヌプリケシオマップで土地を借りて牧場を開設し、約100頭の牛馬を飼育した。1914年(大正3年)には総面積330ヘクタールを超える広大な牧場となった。 また農場の他にも、小樽市内の各所に広大な住宅地を所有しており、その借地人も数百人を越えていた。藤山はこれらの不動産運営にあたり、貸地料を常に公平に保ち、公課や修繕費を差し引いた最低料金を収入としていた。このために借地人の多くは安泰に居住でき、親子数代にわたって藤山の土地に住む者たちも珍しくなかった。
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