閉院までの経緯とは? わかりやすく解説

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閉院までの経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 17:58 UTC 版)

稲田登戸病院」の記事における「閉院までの経緯」の解説

開院当初結核病棟があり、結核患者用の隔離病棟存在したその後時代の変化とともに一般的な総合病院として、長らく地域医療支えてきたが、国家公務員共済組合連合会病院再編計画により、2002年廃止対象となった病院敷地3分の1が、国家公務員共済組合連合会所有地および国有地で、残り私有地であった施設老朽化のため改築必要に迫られていたが、その私有地部分地権者土地の返還求めたことで、当地での改築は困難となった。 これに対し多摩区町会連合会など地域住民同病院の職員労働組合地元医師会などの間で、稲田登戸病院存続要望する声が上がり、「稲田登戸病院存続求め住民の会」が結成された。病院存続求め署名活動行われ2004年には川崎市国家公務員共済組合連合会対し、8万人超える署名集めて病院存続陳情した病院存続求め陳情署名を受け、国家公務員共済組合連合会川崎市対し代替地建物無償提供条件として病院存続提案した。これに対して川崎市は、2006年2月川崎市立多摩病院376床)の開設予定しており、国家公務員共済組合連合会住民要望には応えられないとして退けた。そのため合意至らず国家公務員共済組合連合会稲田登戸病院閉院決定し計画どおり2006年3月末日をもって閉院された。 川崎市北部は、東京ベッドタウンとして宅地化進んで急増した人口対し医療機関病床数少ない状態であった。特に多摩区には他に大規模な総合病院がなく、稲田登戸病院存在大きかった。また区外の聖マリアンナ医科大学病院宮前区)などに通院する患者多かった。そのため閉院計画には地域住民反対大きかったが、川崎市もその対策として、川崎市立多摩病院開院することで解決図った稲田登戸病院閉院前後して2006年2月1日川崎市立多摩病院開院し、指定管理者制度もとづき聖マリアンナ医科大学運営を行うこととなった患者カルテ管理業務は、同じ国家公務員共済組合連合会立の立川病院東京都立川市)に引き継がれ問い合わせ受け付けている。 その後病院建物廃墟化し廃墟マニアなどによる不法侵入が相次ぎ火事起きたが、2011年解体された。 2018年11月になり小田急向ヶ丘遊園駅南口より徒歩5分と交通の便もよく、生田緑地にも近い好立地のため、跡地には東京建物マンションBrilliaブリリア向ヶ丘遊園」が建設され分譲された。 なおこの病院では1980年代に、テレビドラマ私鉄沿線97分署」第30話でロケーション撮影が行われたことがある

※この「閉院までの経緯」の解説は、「稲田登戸病院」の解説の一部です。
「閉院までの経緯」を含む「稲田登戸病院」の記事については、「稲田登戸病院」の概要を参照ください。

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