門人 帆足長秋
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昭和30年(1955年)松阪殿町松阪市役所内から本居宣長顕彰会により、非売品として「鈴屋読本」なる冊子が発行されている。この中で長秋について触れている部分を抜粋する。『宣長には門人が全国にわたつて四百余人ある。鈴木梁満(やなまろ)のように破門された者もまれにはあつたが、どの門人も学問を尊び、研究に熱心な人ばかりであつた。肥後国山鹿郡久原村一目明神の社司帆足長秋もその一人である。長秋は、寛政三年の冬、同じ肥後の学友杉谷参河と共に松坂に来り、何十日も泊り込んで「万葉集」書入れ本の写本を行つた。両人ともに家がまづしく、宿をとらずに部屋を借り、食事も自分で作つて鈴屋へ通学した。長秋はこの時ご飯をたべずに毎日おからを食つてはげんだが、帰るころにはその価が一貫文にもなつた。とうふ屋の主人は長秋の熱心さに感じてその代価を受けなかつたと言う。 享和元年には15歳になるむすめの京(みさと)をつれて、長秋は第四回目の勉学に松坂へ来た。相かわらず貧しいので、戸屋氏の古家を借りて居たが、のきはかたむき屋根は破れて居た。ある日同じ松坂の門人笠因直麿(かさよりなおまろ)が長秋をたづねて来て居た。時に雨がふつて来て雨水がたたみの上に漏って来た。長秋は「京、何かで雨水を受けなさい。」と言いつけたが、京は「たらいもありません。おけでははばが足りません。」と言つて、雨はもり放題にして半紙へ次の歌を書きつけた。☆この宿は海にらなくに雨ふればたたみの上に波ぞたちぬる. 「これはおわかいに似ず立派なお歌、私が家主に代わってお答えしましょう。」直麿はこう言って次の歌をしたためてこれに和した。☆波のたつたたみの上はつらくとも里の名にめでまたも来ませよ. 里の名とは「またも来るのを待つ(松坂)」という意である。そのうち旅費はつきて来た。写本のためにはまだ二十日ばかりは泊る必要がある。さあこまつた。処がこの事を稲縣(いなき)大平が聞き「これは気の毒だ、旅費の不足はおぎなうから最後までつづけなさい。」とはげまされたので、長秋大きに感謝し一そう勉強につとめた。 この時、長秋は次の歌をよんで、学問を奥深く学ぶことの悦びをうたつている。☆はてもなきまなびの道をたづぬればとはに旅ゆくここちこそすれ. こうして六十日余り泊りつづけて勉強し、九月一日にやつと学業を終り、国に帰ることゝなつた。宣長は常に長秋の苦学に感心して、親切に導きはげまして居たが、父子が松坂を去るにおよび、別れをおしんで歌を送られた。またむすめの京がわかくて学才にすぐれ、歌文の道に熱心な様をほめて居られたが、次の歌をおくつてはげまされた。☆わか葉より香ことなる白ぎくの末長月の花ぞゆかしき. こうして長秋親子が宣長に別れて松坂を去つたが、これは師弟一生の別れとなつた。宣長はその月二十九日に死んだのである。長秋の苦心篤学の思いは後に報いられて、熊本に於ける鈴屋学の開祖とあがめられるに至つた。』
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