門人 帆足長秋とは? わかりやすく解説

門人 帆足長秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 15:18 UTC 版)

帆足長秋」の記事における「門人 帆足長秋」の解説

昭和30年1955年松阪殿町松阪市役所内から本居宣長顕彰会により、非売品として「鈴屋読本」なる冊子発行されている。この中で長秋について触れている部分抜粋する。『宣長には門人全国にわたつて四百余人ある。鈴木梁満(やなまろ)のように破門された者もまれにはあつたが、どの門人学問尊び研究に熱心な人ばかりであつた。肥後国山鹿郡久原村一目明神社司帆足長秋もその一人である。長秋は、寛政三年の冬、同じ肥後学友杉谷参河と共に松坂来り何十日も泊り込んで万葉集書入れ本の写本を行つた。両人ともに家がまづしく、宿をとらずに部屋借り食事自分で作つて鈴屋通学した長秋はこの時ご飯をたべずに毎日おからを食つてはげんだが帰るころにはその価が一貫文にもなつた。とうふ屋の主人長秋の熱心さに感じてその代価を受けなかつたと言う享和元年には15歳になるむすめの京(みさと)をつれて、長秋第四回目の勉学松坂へ来た。相かわらず貧しいので、戸屋氏の古家借りて居たが、のきはかたむき屋根破れて居たある日同じ松坂門人笠因直麿(かさよりなおまろ)が長秋をたづねて来て居た時にがふつて来て雨水がたたみの上漏って来た。長秋は「京、何かで雨水を受けなさい。」と言いつけたが、京は「たらいもありません。おけでははばが足りません。」と言つてはもり放題にして半紙次の歌を書きつけた。☆この宿は海にらなくにふればたたみの上に波ぞたちぬる. 「これはおわかいに似ず立派なお歌、私が家主に代わってお答えましょう。」直麿はこう言って次の歌をしたためてこれに和した。☆波のたつたたみの上はつらくとも里の名にめでまたも来ませよ. 里の名とは「またも来るのを待つ(松坂)」という意である。そのうち旅費はつきて来た。写本のためにはまだ二十日ばかりは泊る必要がある。さあこまつた。処がこの事を稲縣(いなき)大平聞き「これは気の毒だ旅費の不足はおぎなうから最後までつづけなさい。」とはげまされたので、長秋大きに感謝し一そう勉強つとめた。 この時、長秋次の歌をよんで、学問奥深く学ぶことの悦びをうたつている。☆はてもなきまなびの道をたづぬればとはに旅ゆくここちこそすれ. こうして六十余り泊りつづけて勉強し九月一日にやつと学業終り、国に帰ることゝなつた。宣長は常に長秋苦学感心して親切に導きはげまして居たが、父子松坂を去るにおよび、別れをおしんで歌を送られた。またむすめの京がわかくて学才にすぐれ、歌文の道に熱心な様をほめて居られたが、次の歌をおくつてはげまされた。☆わかより香ことなる白ぎくの末長月の花ぞゆかしき. こうして長秋親子宣長別れて松坂を去つたが、これは師弟一生の別れとなつた。宣長はその月二十九日死んだのである長秋苦心篤学思いは後に報いられて、熊本に於ける鈴屋学の開祖あがめられるに至つた。』

※この「門人 帆足長秋」の解説は、「帆足長秋」の解説の一部です。
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