長沙占領と反転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 10:17 UTC 版)
第4師団の指揮下にあった早淵支隊はいち早く前進して9月26日に撈刀河を、翌27日に瀏陽河を無血渡河して夕刻長沙市街の一角に突入した。早淵支隊が入城した当時、市民はまだ避難しておらず、敗走してきた中国軍が後から進入してくる程であった(第9戦区司令部は湘潭へ退避済み)。日本軍は市街の破壊や掠奪などを禁じた命令を守り、翌28日には市内の掃討を完了させた。9月29日、第4師団主力も長沙東側地区に集結した。この日、中国空軍のSB爆撃機9機は温江飛行場から発進し、8機が長沙市街北端に爆弾30個を投下した。編隊を離脱した1機は宜昌飛行場に着陸して日本軍に帰順した。30日、AP通信・UP通信のアメリカ人・ドイツ人記者5名を乗せた旅客機が長沙上空に飛来して長沙占領を確認し、その後岳州の軍司令部を訪問して阿南軍司令官から作戦目的の説明を受けた。これは中国側が依然「長沙固守」を盛んに宣伝していることへの対抗措置である。 第3師団は長沙よりさらに南の株州への追撃を具申したが、作戦目的達成と判断していた軍司令部から一度は却下されていた。しかし、すでに一部を独断で向かわせていた第3師団は再度追撃を具申し軍参謀部を困惑させたが、阿南軍司令官はあっさりこれを承認した。第3師団は退却途中の中国軍と激戦を交えながら、29日株州に突入してこれを占領、休む間もなく翌日に反転を開始した。 長沙の占領と中国軍の主力部隊を潰滅させ作戦目的の達成を確認した日本軍は、10月1日日没後に反転を開始した。この反転が開始される前後から、日本軍の兵站線に対する東からの中国軍(第4、第20、第58、第72軍など)の攻撃が積極化してきた。第4師団主力が反転する際、歩兵第61連隊の第11中隊が取り残され、10月2日に長沙の近くで包囲される事件が起こった。一部部隊が引き返し、第1飛行団の16機が出動して3日に救出した。日本軍は頑強に妨害を試みる中国軍を排除しながら北上し、おおむね10月6日までに新牆河を渡って帰還した。 中国軍は湖南省の民衆の協力を得て作戦地域の道路を徹底的に破壊し、水田はすべて冠水していた。これは装備劣勢の中国軍が日本軍との戦力の均衡を狙ったもので、日本軍の重砲や戦車はついに汨水より南への戦闘に参加できなかった。 長沙作戦の策応作戦として、南昌方面では第34師団と独立混成第14旅団が9月25日、27日から陽動作戦を行った。また北支那方面軍も牽制作戦を実施、第35師団が黄河を渡河して南岸の中国軍陣地を攻撃した(河南作戦)。
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