鑓水商人とは? わかりやすく解説

鑓水商人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 04:49 UTC 版)

鑓水」の記事における「鑓水商人」の解説

江戸時代鑓水生糸取引で「江戸鑓水」と呼ばれるほどの賑わい見せ、「鑓水商人」と呼ばれるという商人集団生まれた日米修好通商条約により横浜港開港すると、高値売りたい養蚕農家生糸欲し外国商社との間を取り持ち各地から生糸を買い集め、鑓水村にある自前蓄え頃合いをみて高値転売を行うという手法で一層発達した。この時代、平本平兵衛八木下要右衛門大塚左衛門大塚五郎吉などの商人活躍し1851年嘉永4年)にはまだ鎖国中にもかかわらず外国人接待するための「異人館」と呼ばれた螺旋階段つきの洋館まで建てられ開国後にはイギリス外交官アーネスト・サトウも「異人館」を訪れて宿泊したという。。鑓水最盛期迎えるが、そのほとんどが明治時代中頃までには没落してしまった。

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鑓水商人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 04:34 UTC 版)

神奈川往還」の記事における「鑓水商人」の解説

中央高地北関東および多摩地域生産され生糸八王子原町田周辺集められるうになると、特に多摩郡由木村鑓水(現:八王子市鑓水)の商人仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるうになる。絹取引で富を築いた鑓水商人たちの屋敷が、街道沿って軒を連ねた江戸幕府は、鑓水商人たち生糸横浜運んで密貿易をすることを取り締まるために「五品江戸廻令ごひんえどまわしれい)」を出して生糸呉服水油などの五品目はすべて江戸経由で運ばなければならないように義務付けられたが、これを無視して絹の道」を通って横浜運搬する者が後を絶たなかった。この鑓水商人の全盛期には、現在の府中市付近から鑓水地区経由して神奈川県津久井郡川尻村(現・相模原市緑区川尻)までを結ぶ南津電気鉄道(南津は「南多摩」の「南」と「津久井」の「津」の意)の敷設計画されたほどである。東京都八王子市の『絹の道資料館近くには「鑓水停車場と書かれた石碑建っている。

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