鉛の職への昇進
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 23:23 UTC 版)
「セバスティアーノ・デル・ピオンボ」の記事における「鉛の職への昇進」の解説
ジュリオ・デ・メディチがローマ教皇クレメンス7世になって、 piombatore (教皇室の教皇書簡に鉛の印章 piombo を捺印する役職)が空位になった。その職をめぐって2人の画家が争った。1人は、これまで比較的貧しかった男で、名前はセバスティアーノ・ルチアーニ(Sebastiano Luciani)。もう1人はジョヴァンニ・ディ・ウーディネという男だった。修道士の服を身につけたセバスティアーノは、ジョヴァンニに年300スクード(銀貨)支払うという条件を持ちかけ、このとても金になる職を手に入れた。言うまでもなく、デル・ピオンボ(del Piombo)という名前は、この職に由来するものである。もし彼がこれまで通り遅々として絵を描き続けていたならば、もしかしたら、現代では鼻にもかけられない存在になっていたかも知れない。 鉛の職に就いて以降、ピオンボが描いた絵は少ないが、アクイレイアの総大司教のために描いた『十字架を運ぶキリスト』と『キリストの遺骸と聖母』といった作品がある。前者は石の上に描かれたもので、ピオンボ自身が開発した技法である。同じ時期にスレートにも『十字架を運ぶキリスト』を描いていて、スレートがそのまま背景になっている。それは現在ベルリンのギャラリーにあり、そこには、やはり同じ方法で描かれた、アリマタヤのヨセフに支えられるキリストの遺骸の絵があり、泣いているマグダラのマリアの巨大な半身像も描かれている。 晩年、ピオンボは、ミケランジェロの『最後の審判』を巡って、ミケランジェロ本人と激しい口論となり、教皇に、絵は油彩で仕上げなければならないと唆した。しかし、ミケランジェロは、フレスコでしか描かないという最初の意志を貫き、教皇には、油など女たちか修道士セバスティアーノみたいな怠け者にしか適さないときっぱり返答した。これ以降、2人の関係は、ピオンボが死ぬまでずっと冷え切ったままだった。 1547年、ピオンボは激しい高熱と多血質からローマで亡くなった。死ぬ前に、サンタ・マリア・デル・ポポロ教会での埋葬は聖職者・修道士、さらに灯りを抜きで行い、節約されたお金は貧しき人々に渡るよう、遺言した。 ピオンボの元には多数の弟子たちが集まったが、ピオンボの遅筆さと自分に甘い性格のため、順応できたのはトマーゾ・ラウレティくらいだった。ピオンボは自分でも想像力に欠けるところがあると判っていたのだろう、肖像画家として有名になることに勤めた。その中でも、ローマ、ドーリア・パンフィーリ美術館にある『アンドレア・ドーリアの肖像』は特に有名な絵の1枚である。ロンドンのナショナル・ギャラリーにも2枚の好例がある。1枚はイッポーリト・デ・メディチ枢機卿と一緒にいる修道士姿のピオンボの自画像、もう1枚は、ピアンボの初期の作品の1つとされていた、聖アガタに扮した女性の肖像画で、イッポーリトが枢機卿になる前の恋人だったジュリア・ゴンザーガがモデルではないかと言われてきたが、現在ではそれは疑問視されている。他には、マルカントニオ・コロンナ、ヴィットリア・コロンナ、ペスカーラ侯爵フェルディナンド、ローマ教皇のハドリアヌス6世、クレメンス7世、パウルス3世、さらにミケーレ・サンミケーリ、アントン・フランチェスコ・デッリ・アルビッツィ、ピエトロ・アレティーノの肖像画がある。アレンティーノの妹のものと思われる肖像画もアレッツォとベルリンのギャラリーにある。
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