鉄道線の国有化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/23 02:11 UTC 版)
戦時色が濃くなるにつれて、日本では国家による交通機関の統制が行われるようになり、1940年(昭和15年)には陸運統制令が施行された。これによって政府命令による交通機関の統合や買収が日本各地で進められるようになった。宮城電気鉄道も買収の対象となり、1944年(昭和19年)5月に国有の仙石線となった。この頃の宮城電気鉄道の沿線では、東京第一陸軍造兵廠仙台製造所、多賀城海軍工廠、矢本飛行場が稼動していた。東京第一陸軍造兵廠仙台製造所への工員輸送のために新田駅を移設する形で苦竹駅が設置され、また矢本駅から矢本飛行場へ軍用線が引き込まれ、航空燃料の輸送が行われていた。こうした軍事関係の物資の輸送、工員の通勤を鑑みた買収だったとされる。会社としての宮城電気鉄道は関係官庁の指導で証券保有会社としてひとまず存続したが、官庁の指導方針が変わったことで同年12月に宮城電気鉄道は解散を申請した。買収価格は2400万5946円(国債交付額2476万500円)だったが、国債は後に戦後のインフレで紙くず同然になった。また、買収により宮城電気鉄道の職員69名は国有鉄道の職員となった。 戦後、宮城電気鉄道の私鉄へ復帰を求める元株主の動きがあり、元社長の中村梅三がこれに努めた。しかし、沿線の自治体は国有鉄道としての仙石線を望み、また国有鉄道の労働組合も私鉄への復帰に反対したという。会社として存続していなかったこともあって、宮城電気鉄道の復活はならなかった。国有化からしばらく経った1956年(昭和31年)、仙石線に管理所が発足した。管理所制度は国鉄が非採算線区の経営改善ために起こしたもので、仙石線管理所はその初となる事例だった。この中で責任者である所長は、宮城電気鉄道の元幹部から話を聞き、仙石線の経営改善に活かしたという。 なお国有化以後の詳細は仙石線の項目を参照のこと。
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