金融・財政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:29 UTC 版)
明の財政は初期には現物主義であったが、北方の防衛費として軍物資の代金を銀で収めるようになり、明末は銀を中心とした財政になった。北方での軍事費の増大によって大量の銀が運ばれて、全国で銀不足が起きた。銀不足によって税の滞納が増えると、困窮して逃亡する者が増えた。財政危機の対策として一条鞭法などの税制改革も行われたが、農村から徴税された銀は官僚や商人の懐に入り、銀不足は解消されなかった。農民に銀を貸すのは、典当業(zh:典當業)と呼ばれる徽州商人の質屋・金融業者であり、農民が自転車操業を繰り返す一方で典当業者は利益を蓄えていった。明は満洲対策の軍事費がかさむとさらに重税を課し、反乱の原因となった。 明は日本やアメリカから輸入される銀に依存していたが、海禁が強化された1650年代後半から遷海令が終了する1680年代まで銀の輸入が減り、物価が低落してデフレーションが深刻化した。 明清交替時代は、各政権がみずからの正統性を主張するために銅銭を発行した。李自成政権の永昌通宝(中国語版)、張献忠政権の大順通宝、弘光政権の弘光通宝(中国語版)、隆武政権の隆武通宝、永暦政権の永暦通宝、魯王の大明通宝、呉三桂の昭武通宝や利用通宝などがある。 清は康熙帝の時代から銅貨を大量に発行して、各地で物資の交換に滞りがないことを計画した。雲南を中心として民間に銅鉱山を経営させて銅生産を増やしたが、遷海令の解除と貿易の再開によって銀の流入が急増すると、銀の比価が落ちて銭貴と呼ばれる現象が起きた。公定レートは銀1両=銅貨1000文だったが実際は銅貨780から800文となり、銅貨の密造が増えた。清は密造対策として放本集銅という制度に切り替えたが、銅鉱山の経営が不利となったため鉱山が減少し、清は日本からも銅を輸入した。また、清は明が紙幣(宝鈔)を乱発してインフレーションを招いた点を参考として、初期は紙幣を発行しなかった。
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