重要文化財指定の申し入れと抜き打ちの取壊し
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「三菱一号館」の記事における「重要文化財指定の申し入れと抜き打ちの取壊し」の解説
1967年(昭和42年)9月に文部省文化財保護委員会は三菱地所に対し文化財指定の申し入れを行い、三菱地所は無断で取り壊すことはしない旨を示したため、文化財指定は見送られた。しかしその後、文化財保護委員会は文化財保護法の強制指定の適応を検討していたが、三菱地所は1968年(昭和43年)3月21日に解体工事を開始する旨、一方的に文化財保護委員会宛てに通告した後、突如その翌日の同年3月22日夜間に足場を架設し、丸の内地区の人通りが少なくなる土曜日の同年3月23日を選んで解体工事を強行した。 この三菱地所が解体工事を強行した理由について、2010年1月号の「建築雑誌」によれば、三菱地所のある役員は、1968年当時の三菱地所で解体工事を発注する立場にあった社長より、丸の内の企業とその連結企業の売り上げは日本のGDPの20パーセント程度であり、企業活動の場を多く提供することが丸の内の使命であったことから、また、現在のような都市計画上の支援制度などもなかったため「東9号館」を解体することになったなどと説明を受けた、としている。役員自身も、当時の保存要望に応じられなかった理由は、丸の内の社会的状況と制度の問題だったと思う旨発言している。 なお、この1968年当時の「制度の問題」について、建築史家の太田博太郎によれば 「後ろに高い建物を建てれば、もし面積的に損であるというのならば、何か特例を東京都にかけあって設けてもらうとか、そういう運動ならいくらでもするからと言ったんだけど」太田博太郎 『建築史の先達たち』 彰国社 とも記されている。 一方、三菱地所発行の社史『丸の内百年のあゆみ:三菱地所社史』によれば、申し入れを受けた三菱地所が「東9号館」の耐久性の調査を行った結果、不同沈下により外壁に亀裂を生じるなど耐力的に限界であることが再三確認され、さらに敷地に隣接した地下トンネル(横須賀線)工事による地盤変化で倒壊の恐れさえあり、危険であることなどが解体の理由であると記されている。
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