鄭氏政権から日清戦争終結まで(1662年~1895年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 01:15 UTC 版)
「中台関係」の記事における「鄭氏政権から日清戦争終結まで(1662年~1895年)」の解説
「鄭氏政権 (台湾)」および「清朝統治時代の台湾」も参照 台湾には古来、マレー・ポリネシア系の先住民(台湾原住民)が居住していたが、12世紀ごろから中国大陸から漢民族が到来し始め、13世紀末に元の世祖クビライが台湾南西の島、澎湖島に巡検司を設置した。 明代後半の16世紀末から、現在の福建省からの移民が本格化した。1661年、鄭成功(実母は日本人)が当時台湾を植民地支配していたオランダを駆逐して、台湾史上初の漢民族政権を樹立した(鄭氏政権)。しかし、鄭氏政権は1683年、わずか20年余りで清国に制圧された。鄭成功は、「反清復明」(満州民族の王朝である清を打倒し、漢民族の王朝である明を復興する)の目標を果たすことなく死去したが、台湾開発の基礎を築いた実績は今日の台湾でも高く評価されており、台湾人の不屈精神の支柱・象徴「開発始祖」「民族の英雄」として社会的に極めて高い地位を占めている。 鄭氏政権が倒れた翌年の1684年、康熙帝が台湾領有の詔勅を下し、台湾を清国の版図としたが、台湾を「化外の地」として扱って実質的に統治せず、漢民族の移住を厳しく制限した。しかし、その後も福建人や広東人、客家人が台湾に多数移住した。 台湾出兵の発端となった台湾原住民による日本人船員殺害事件(1871年)では、清は日本政府の賠償要求に対し、管轄外として拒否した。
※この「鄭氏政権から日清戦争終結まで(1662年~1895年)」の解説は、「中台関係」の解説の一部です。
「鄭氏政権から日清戦争終結まで(1662年~1895年)」を含む「中台関係」の記事については、「中台関係」の概要を参照ください。
- 鄭氏政権から日清戦争終結までのページへのリンク