鄭氏政権以降の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/31 15:11 UTC 版)
1662年、鄭成功はオランダ勢力を台湾より駆逐した。台湾北部に進出した鄭成功は、左武衛何祐に淡水防衛のための紅毛城の修理を命じた。1683年に鄭氏政権が清朝に帰順すると紅毛城は一旦放棄された。しかし清初に台湾北部に多くの入植者が移住し、また原住民の招撫、治安維持や海防の必要が生じるようになると1724年に淡水庁同知王汧により大規模修理が行われ、城壁や城門を加えた統治拠点となった。しかしその後は政策の変更もあり、紅毛城は漸次防衛機能を失い廃墟と化していった。 その紅毛城が再び注目されたのは1851年、北京条約により淡水が開港されたことによる。咸豊年間の英仏連合軍に敗れた清朝は淡水を始めとして基隆、安平、打狗を開港、これにともない各港には各国の商社及び領事館が設置されることとなった。この時期イギリスは打狗、安平、淡水に領事館を設置した。当時台湾北部では茶葉と樟脳の輸出が増大しており、これに対応すべくイギリスは清朝と1867年に紅毛城の永久租借協定を締結、翌年には紅毛城内に領事館を設置し、イギリス人約10名が居住していた。 1895年に日本による台湾統治が開始されると、1912年にイギリス政府は日本政府との間に再び租借協定を締結した。1941年の太平洋戦争が勃発すると日本軍により紅毛城は接収される。戦後は再びイギリスに返還されたが、1972年の台英断交によりイギリス領事館は撤退、紅毛城はオーストラリア大使館により管理代行が行われ、その後台豪断交が行われるとアメリカ大使館が管理を行い、米台断交後はアメリカ在台協会により管理が1980年まで続けられた。その後外交部の交渉の結果、1980年6月30日に台湾政府に返還され、1984年から一般開放され現在に至っている。
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