鄭検の政権掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/11 09:28 UTC 版)
1545年、阮淦は莫朝からの降将の楊執一の手によって毒殺された。阮淦の幕下にいた鄭検はこの機会を逃さずに太師となって後黎朝の主導権を握った。阮淦には二人の子がいたが、鄭検は長男の阮汪を殺し、次男の阮潢を順化(現在のフエ)に追放した。しかしこれにより阮潢は南部の支配権を握ることになった。1570年、鄭検が死ぬと長男の鄭檜(英語版)が後を継いだが、悪政と莫朝との敗戦で権威が失墜したため、その弟の鄭松が当主の地位を奪い莫朝軍を撃退した。鄭松は極めて活発な指導者で、1572年には莫朝から東京を奪回した。翌年には莫朝に東京を奪取されたものの、20年にわたって小競り合いが続く間に莫朝を弱体化させた。 1592年、鄭松は再び東京を奪還し、このときに莫朝第5代皇帝の莫茂洽(中国語版)を捕らえ処刑した。この後数年にわたって莫朝に勝利を続け、その後莫朝は高平(現在のカオバン省)に逃れ、明とそれに続く清の保護のもとに1677年まで地方政権として存続した。
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