都市圏の形成とは? わかりやすく解説

都市圏の形成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/06 03:46 UTC 版)

大分都市圏」の記事における「都市圏の形成」の解説

現在の大分市には、古く豊後国国府所在し大友氏本拠地となるなど長年にわたりこの地域行政の中心であったが、小藩である府内藩藩庁とどまった江戸時代には発展停滞した明治に入ると、大分県県庁置かれ、大分紡績(後の富士紡)が進出するなどして徐々に発展したものの、町村制発足した1889年明治22年)の人口1万804人で、中津町1万2,583人)に次いで大分県下で2番目、臼杵町1万139人)とほぼ同じという規模であった。しかし、1907年明治40年)の合併などにより人口増大し1911年明治44年4月には大分県初め市制施行した人口31,249人)。戦後には、1964年昭和39年)に新産業都市指定受けて大分臨海工業地帯形成されると、工業都市として著し発展見せ人口急増するとともに都市圏拡大した一方現在の別府市には、1871年明治4年5月別府港完成し1873年明治6年5月大阪との航路結ばれたことによりしだいに人々集まり温泉都市へと発展した。そして、1900年明治33年5月別府と大分を結ぶ豊州電気鉄道別大電車)が開業日本5番目)するなどして、都市間のつながり強まったまた、その運行のために別府市中浜火力発電所設置日本2番目)されると、その電力街灯整備され別府中心部流川界隈全国有数繁華街として夜も不夜城賑わい見せた1924年大正13年)には大分県2番目に市制施行したが、その当時別府市人口は36,276人であり、ほぼ同時期である1920年大正9年)の大分市の43,150人と比べても、両市の規模には現在ほどの差はなかった。現在では、人口規模では大分市に譲るものの、別府温泉中心に毎年1,000万人超える観光客訪れ観光地となっている。

※この「都市圏の形成」の解説は、「大分都市圏」の解説の一部です。
「都市圏の形成」を含む「大分都市圏」の記事については、「大分都市圏」の概要を参照ください。

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